■たまたま…
加藤一郎・編著「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊
をめくっていたら、その pp.332-337 の
「第五九話 寄席から活動写真になる時代」
の冒頭に
豊沢高等演芸館 一三〇坪 収容人員三七〇人* 中渋谷 一九五番地 (高橋長吉)
道玄坂上の西側に、後に渋谷劇場として立派な演芸館であ った。経営者の高橋長吉 の後、妻女の 「みえ」が三長のおばさんで名声を売 った。現在も円山町に料亭 「三長」を経営している。
*【参考】下北沢の本多劇場は1フロアで386席
と書かれていた。
「後に渋谷劇場」「料亭『三長』を経営」とされているのだから、所在地には誤記があるものの、これは 古き美しき木造屋敷は100年後まで「料亭三長」 の末尾に写真のある、明治45年8月15日撮影の「豊澤亭」であることにまず間違いない。
しかし、上記の「明治四拾五年八月拾五日」付の写真に写り込んでいる幟には、はっきりと「豊澤亭さん」と染め抜かれているのに対し、前掲・加藤に掲載されている下記の写真の幟には「豊澤高等演藝館」と染め抜かれている。
デジタルライブラリの全文検索機能で「豊澤高等演芸館」を検索してみると
東京府豊多摩郡役所「東京府豊多摩郡誌」同郡役所/T05・刊のp.164
には、この「觀客定員 三七〇人 所在地 中渋谷五百九十五番地」の「寄席」の「席名」が「豊澤高等演芸館」とされている。
また、樋口清之・編「新修渋谷区史」同区/S42・刊 p.1455
では、
大正元年 1912年 9月
明治45年=大正元年当時の「豊澤亭」は、
大正4年までの間に「豊澤舘」に、
さらに大正5年には「豊澤高等演芸館」に
名称が変わったことになりそうだが、「豊澤亭」から何も変わらないのに名前だけ「高等」を名乗ってもただの「嗤い種」になるのは必定なのだが、先の「亭」時代と「館」時代の写真を較べても「外観」に変化があるとは思えないので、この間に何らかの意味で「中身」が変わったと考えるほかない。
■調べてみると…
以下のように
- 「高等」演芸塲〔館〕というのは、いわば準固有名詞であること
- したがって、何らかの「定義」があるわけではなく
- わが国初の〔西欧式〕劇場であることがいわば定説である「帝国劇場」まで、江戸時代の寄席・芝居小屋から変遷するまでの中間的な段階の興行場の形態らしいこと
まではわかってきたのだが、それでは
- 寄席・芝居小屋とどこが異なるために「高等」なのか
- 逆に、何が足りない、あるいは、何が余分なために、現在「劇場」と評価されていないのか
は、先のとおり「定義」がないだけに結構難しい。
■わが国の
興行場の様式を、最初に大きく変化させたのは、意外ともいえるが
明治22(1889)年開場の
歌舞伎座(初代:~大正10〔1921〕年)
といってよさそうである。
河竹繁俊 「歌舞伎史の研究 : 近世歌舞伎の性格を中心として」東京堂/1943・刊 p.144
同座は、歌舞伎自体の近代化論(演劇改良運動)に対応するため、その理想を実現する場とするために建造された
といわれる、外観西欧風、内装純和風の建物だった。歌舞伎座の歴史
牛込高等演芸館
である。
東京俳優学校と牛込高等演芸館
【参考】
永井聡子・清水裕之「明治末期より昭和期に至る劇場空間の近代化に関する研究 : 前舞台領域の空間的変遷」日本建築学会計画系論文集No.513pp.135-142/1998.11
牛込に次いで、規模の面で定員900名とやや小ぶりながら西欧の劇場と較べても大きな遜色のない「高等演芸館」といえるものが
有楽座
澁澤榮一伝記資料 27巻
吉田奈良丸・述/丸山平次郎・記「浪花武士義士伝」奈良丸会/M44・刊 p.88
伊原青々園「団菊以後 続」相模書房/S12 pp.168-
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1221352/1/102
*以下↓は判読の便宜のために、引用者が補入
○有樂座 [〔割註〕麹町區有樂町二丁目三番地]
株式組織よりなれる高等演藝場にて日本に於ける唯一の洋式劇塲たると同時に叉其の嚆矢です、今之れを詳細に説明しますれば↓
(一)同座は横川工學士が欧洲各國の劇塲を参酌しルネイサンス式に則し建築した三層樓の廣大なる建物にて外觀の壯麗、内部の完美。他に比類なく今は東京名勝の一と數へらるゝに到りました、↓
(二)觀客席の設備は飽迄も洋式の特色を發揮し、廣間及ぴ東西䙁敷二階及び東西䙁敷、及び三階の三種に分れ廣間の東西䙁敷、二階の東䙁敷を除く外は悉く椅子席にて大凡千人を容るゝを得↓
(三)洋式の舞臺はアーチ形の額縁の中に収り舞臺天井の高さは我が舊來の劇塲に約三倍せるを以て如何なる大道具も背景も純張も其の儘自由に引上げ引下すことを得ますれば場面を轉換せしむる時は其敏速なる到底廻舞臺の比でありません↓
(四)随一の劇塲電氣、は同座が最も完全を誇る所の一にて天井より階上階下及廊下の隅々に至るまで數百個の電燈燦爛として白日を欺き舞臺は脚光、側光の外に、四列の天井電氣を配置しあれぼ光線は上下左右より來り、三階の遠きに在るも俳優の表情は微妙なる筋肉の働きまで明らかに見ることが出来ます、而して之等の光線は欧州最新式の抵抗器十臺を利用し種々の色電気を以て月夜薄暮暁色夕映等自然界の種々なる色の作用運動を自在に巧妙に現はし、之れ亦他に見る能ばぬ特色の一です。↓
(五)觀劇の軽便と経済、一枚の入場券の外下足蒲團番附代及ひ祝儀など一錢一厘の冗費を要しません。↓
(六)待遇の親切、觀客に對してぱ凡て親切と叮嚀とを旨とし入口には同じ服裝せる女給仕十數名ありて一々觀客席に案内します、↓
(七)座附飲食店たる東洋軒は材料の清新さ價格の安直と料理の軽便迅速とを長所とし、亦塲内階上階下共何れも設備してあります↓
(八)場内の淸潔と美麗とは日本劇場中の優にて殊に階上階下の和洋二様の便所の完全せる觀者の満足する所↓
(九)演劇と各種演藝、同座は演劇の外に時々音樂、舞踊、義太夫、長唄等各第一流者を撰んで興行し↓
(十)子供日 は兒童に清新なる娯樂を得せしめん爲 日曜、大祭日毎お伽芝居を中心として児童に適當なる種々の演藝を興行します故、今は高等演藝塲と共に滿都兒童唯一の娯楽塲となりました、↓
百聞一見に若かず、東京に遊ぷ人は一度有樂座を一見して故郷への土産話となさるのを勸めします。
■この記事を…
一読する限りでは 、近代的な西欧型劇場であることについて異論を見ない
*椅子席を基調としているので、桟敷席だけのために下足番を置いたとも考えにくいので、おそらくは蔵前の国技館の枡席がそうだったが、桟敷の脇までは土足で出入りし、桟敷の床下にそれを収納していたのではないかと想像する。
■こうなると…
高等演芸館を特徴づける要素は何なのか*、また一方で「豊澤…」が何をもって「高等演藝館」を標榜したのかを見つけ出すのは、非常に難しいことがわかる。
*演目の面では
竹本浩三「戦争と演芸」立命館平和研究: 立命館大学国際平和ミュージアム紀要 Vol.2、2001.03
「 講談・浪曲・落語の三ジャンルを高級演芸と位置づけ、漫才・妻(手品)・曲芸・剣舞・三味線芸などの雑芸を「色物」と仕訳していた時代が、つい先年まであった。その色物芸が遂に高級芸を駆逐?、淘汰してしまった昨今、ステータスが逆転して今や漫才が高級演芸で落語を除く二演芸が色物になったと指摘した先生がいた。それが誠なら時代の変遷のなせるワザでもあろう。」
あるいは、この場合高級と高等は同義なのかもしれないが、「高級演芸場」と名乗る興行場所が、先の牛込や有楽座とは別にある程度あったらしいので、今のところ断定できないし、上記三ジャンルと有楽座の演目(九)とも重なっていない。
【参照】
「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」中「有楽座」によれば(1) 高等演芸場として東京の有楽町に建てられた日本最初の洋式劇場。 1908年 11月1日開場。定員は桟敷を含めて 900人。従来の平土間に椅子席が設けられたほか,見物席での飲食喫煙を禁止して別に食堂と休憩室が設置され,茶屋出方を廃して切符制度,案内人が採用されたとされているという。
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