2023-06-24

道玄坂(と宮益坂)の拡幅経過

 ■100年に…

一度といわれる渋谷の再開発。

 たまたま、現在の道玄坂地蔵尊の流転、とくに最初の遷座の時期と理由を調べる裡、いわば渋谷のメインストリートである道玄坂や宮益坂の拡張経過が徐々に分かってきた。

 「忘却のかなた」にしてしまうのは勿体ないので、ここに、順次追記を加えながら、ノートとしてまとめて行くことにした。

■江戸時代より前

といっても、その初期についてはまだよくわからない。ただ、西方から武蔵の国に行くのに、箱根外輪山の北側を巻いて東方に向かう道はいわば必須だったはずなので、富士山の噴火などの影響でルートはその都度変更されたのだろうが、後記の「大山道」の原型となるルートが古代からあった(足柄道、足柄路)ことは間違いないだろう。

 一方、ここで分岐する瀧坂道も、江戸時代初期に開鑿されたといわれる甲州道中よりも起源が旧いといわれており、その道が、現在の調布市瀧坂で甲州道中に合流しているのだから、律令期から府中の国府に通じる道として存在していた可能性も高い。

■江戸時代

 今の、国道246号の原型のルートは、「大山道」「矢倉澤-道(往還)」あるいは「相模-道(街道)」「厚木道」などと呼ばれ、そのうち、江戸の中心部から渋谷川を渡るあたりまでは「青山道」と呼ばれていたようである。

 とくに江戸後期のこの道を描いている地図は数多いが、「大山道」全般についてはネット上に詳しい記事が数多くあるし、ここのテーマは、渋谷とくに道玄坂近辺の歴史なので、それに必要な範囲のものだけ掲げることにする。

大山街道絵図

大山街道絵図〔部分〕江戸時代 藤沢市藤澤浮世絵館所蔵
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館「特別展 渋谷駅の形成と大山街道」図録 p.7











 この絵地図の中央やや左の青縦線が渋谷川。その左2本目の赤引出し線の場所が大山道と「北池沢村道」とある瀧坂道の追分で道玄坂上だが、このあたりの「道巾」は「貳間半」〔約4.5m〕。その左の青縦線は三田用水。その左の「下リ坂」は大坂で、「道巾」は「貳間一尺」〔約3.9m〕とされている。

「新編 武蔵風土記稿」

「新編武蔵風土記稿 巻之6 山川,巻之7 山川,巻之8 芸文,巻之9 豊島郡之1,巻之10 豊島郡之2」内務省地理局/M17
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/763976/1/82

「中澁谷村」の条の冒頭近くに「村ノ東南ニ相州矢倉澤道アリ巾二間」〔約3.6m〕とある。

●「御府内備考」

「宮益町」の条に「坂巾三間五尺五寸」〔約7.2m〕

蘆田伊人・編「大日本地誌大系 第3巻 御府内備考. 第1至4」雄山閣/S06・刊
「巻之七十四」「渋谷之二」p.334
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1214872/1/177

「道玄坂町」の条に「坂」「三間程」〔約5.4m〕

前・同 p.336

とされている

■明治33年ころの拡幅

前掲・白根特別展図録 p.12によれば

 明治 22 年(1889)以降、同年の近衛砲兵連隊にはじまり、大山街道西方の目黒村、世田谷村への軍事施設の都心部から移転の中で
(明治)「 33 年に道玄坂では坂道の拡幅工事が行われ」た、
とされている。

 出典を探したところ、
加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊「第三八話 御水講と道玄坂(吉田国太郎資料)」(pp.208-268) に、
明治三十三年道玄坂の一次の道路改修がすむと道幅は見違えるほど広く、坂もゆるやかになり、近在の農家から野菜類を市内の市場へ運搬する車も繁く、名物 の立ちん坊が道玄坂下や宮益坂下に集り荷車の後押しをして一銭二銭の労賃を貰っていた。(p.221)

とあった。 

■明治期(時期・一次資料不詳)

拡幅ではなく、勾配調整の可能性が高いが

道玄坂と円山町 - 加瀬竜哉.com : no river, no life

では、「明治時代に池尻の砲兵隊が道玄坂で横転事故を起こし、多くの犠牲を出した。これにより陸軍は道玄坂を約5m削り、現在の高さになったのだという。」としている。

■明治40年ころの拡幅

明治40年ころ、大山道の道玄坂上以西に玉川電気鉄道が敷設されたが、その時、以下のように、この区間の大山道は

幅員8間〔15.2m〕

に拡幅されている。

治39(1906)年03月01日
渋谷~ 道玄坂間軌道敷設工事施行認可 申請
同       年04月17日
警祝総監 ・東京府知事宛て、「営業物件義務履行ノ担保提供許可ノ件」との請願書 を提出
三軒茶屋~ 玉川間の 『軌道敷設工事 ヲ 竣エ シ … 』、三軒茶屋~ 道玄坂上間に お い て は 『道路ハ東京府庁ニ於テハ六間幅ニ拡張ノ御予定… 其後東京府ノ御都合ニ依リ予定ノ六間幅ヲ八間幅ニ御変更… 』、『…明治三十八年一月二十五日及同年五月十一日付ヲ以テ東京府 ノ拡築費中へ多額ノ寄付拡築工事ノ全部ヲ当会社ニ於テ引受タルコトノ上申ヲ為シタ リ … 』
明治40(1907)年03月06日
道玄坂上~三軒茶屋間開通
(以上、世田谷区立郷土資料館「特別展『玉電』-玉川電気鉄道と世田谷のあゆみ-〔図録〕」p.43。)

なお、

東京急⾏電鉄 『東京横浜電鉄沿⾰史』同電鉄/S18・刊
「 明治四⼗年頃⽟電⼯事中の道⽞坂上」
 正面手前は敷石敷設中の軌道、左端奥は工事用のトロッコの軌道と思われる。


■大正期の拡幅

 大正期にも何らかの拡幅ないし勾配調整が行われた模様だが、以下のとおり情報が錯綜している。

●大正7年説

藤田佳世「渋谷道玄坂」彌生書房/1977・刊 p.14 に

「大正七年第一次地区改正で巾を広げ」

とある。

●大正11年説

前掲・白根特別展図録 p.12によれば

「大正 11 年(1922)に再び道玄坂の改修が行われる。」

とされている。

「今や道玄坂改修工事行はれ」
とあり、これが典拠かもしれない

●大正13年以降説

前掲・藤田 p.14 では、前記の大正7年の拡幅に加え

「関東大震災直後に半ばから上を削り取って勾配をゆるめた」

としている。

東京名所図会(M44)
手前右手が明治30年に開鑿された農大通り(現・文化村通り)
道玄坂の「御水横丁」入口あたりに大きな段差らしきものが見える























 上の写真を見ると、ここ道玄坂下も道路幅は意外に広く、少なくとも江戸時代の3間のままではないので、道玄坂上以東も前記明治33年等に拡幅されていることは間違いない。
 
なお、
■大正9年の玉電改軌にともなう拡幅の可能性はないか

これも、明治40年ころのそれと同様に、道玄坂上以西の部分に限る…

前掲・世田谷特別展『玉電』図録 p.44 に

大正09(1920)年08月21日
軌道拡幅工事(1067㎜から1372㎜へ)のため、全線単線運転。
同       年09月03日
軌道拡幅工事完成。東京市電と直通運転可能となる。 1067㎜軌間の車両を全車処分し、新たに木造2軸電動客車15両、木造ボギー電動客車15両2軸電動貨車5両を造る。

とある。

  軌道拡幅(改軌)前の車両の全幅は、同図録pp.47-51の合葉博治氏の推定では1829㎜(ステップを除く)

 これに対し改軌後の車両の全幅は1927年新造のデハ30形で2282㎜。併用軌道を走った最後の形式である1984年新造のデハ150形で2308㎜。

(以上、宮田道一/関田克孝「ありし日の玉電」ネコパブリッシング/2000年・刊 pp.16,19)

 つまり、改軌当初の段階でも、車両の幅が453㎜程(つまり、1.5フィートあるいは1.5尺)広がるのを前提としていたはずで、軌間(各線路の内側の幅)を広げるだけでなく、上下線の線路の間隔も広げる必要があるので、道路中央を占める併用軌道の幅が広がることによって、車馬のための道路幅が狭まることになる。

 上記の工期では無理にしても、前記大正11年の改修なるものは、あるいは、この玉電の改軌に対応したものかもしれない。

■昭和6~8年の都市計画道路としての改修

 道玄坂道が、ほぼ現在の姿となった、現時点では最後の大改修であり、

東京府土木部「東京都市計画環状道路改修工事報告書」同府/S08

に工事記録や写真が掲載されている。

 この道路は、大正10年5月13日に認可・公告されていた

東京都市計画街路のうち

一等大路第三類第七
幅員十二間(中央車道九間 左右歩道各一間半)
目黒村大字上目黒字柳町四百六十七番地地先ヨリ中澁谷字豊澤六百十八番地ヲ經テ字大和田下二百四十三番地地先二至ルノ路線

がこれに該る。

 前掲・報告書によれば
  • (目黒方面から)右折して厚木街道となる。本道路は神奈川縣厚木町方面に通ずる主要道路で、舊澁谷町道玄坂上に至る間は幅員八間にして、玉川電車軌道が敷設され*、道玄坂を勾配十八分の一で下り宇田川に至る(p.152)
  • 所謂道玄坂は幅十米乃至十六米の道路で、其の勾配は坂下より百軒店入口迄は約二十二分の一、それより坂上迄は約十七分の一の急勾配**にて車馬の通行激甚にして交通事故の多い箇所であった。(p.141)
  • 昭和6年8月8日道玄坂より終點に至る區間の歩道幅員を澁谷驛附近の歩行者激増趨勢に鑑みて一間半の計劃を二間に変更し(p.9)
  • 昭和6年6月20日…工事に着手したけれど、工事は延期を重ねて漸く昭和8年…9月20日全部の完成を告ぐるに至った(p.141)
  • 改修路線の勾配は、街路構造令の規定に依る三十分の一を採るには餘に附近の取合に不都合を生じ其の影響する處甚大なるを慮り、二十二分の一を採用したが、尚坂路の頂上部に於て二米餘の切取を余儀なくされ本線路との支道取合勾配は漸く十分の一にて取付くることを得た(pp.141-142)
由。

*この区間は、前記の明治40年の拡幅以降、手が入っていない可能性が高いことを示す。
**この急勾配が、長く乗合自動車(バス)が道玄坂に入れなかった理由のようである。
 大正14年12月22日設立の「日東乗合自動車株式会社」が、翌年3月世田谷町役場と渋谷方面とを結ぶ路線を開設したが、渋谷側の始終点は、下の写真のように道玄坂上の中豊澤停留場に止まっていた。

なお、
ほぼ同時期に喜多見から渋谷方面への路線を開設した、北林自動車も、渋谷側の始終点は「道玄坂上」だった。

これに対し、大正9年設立の代々木乗合自動車の、(幡ヶ谷ー)三角橋と渋谷方面を結ぶ路線は、駒場道(現・玉川上水縁-補助54号線ー山手通りー旧山手通り)から農大通り(現・文化村通り)を経る路線で、当初から渋谷駅前を始終点としていた。


日東乗合自動車豊澤停留場
故・月村信勝氏ご提供

S03 大日本職業別明細図「渋谷町」
日東乗合自動車豊澤停留所


 この路線は、その後、昭和期に入って玉川乗合自動車に譲渡され、日東乗合自動車株会社は、昭和5年3月1日解散したが、渋谷寄りの始終点には永く変化がなかった。

 やはり、道玄坂で乗合自動車を運行させるためには、この工事を待つほかなかったようで、報告書の 

      第六節 交通車輛の利用状態
 起工以東年々部分的に竣功する環状道路上に、直に乗合自動車の運行を見ることは、本道路の効果を語るに十分である。沿道に發達せる商店街及び住宅地を通過し、省線社線の停車場又は停留場を發着地とし、或は郊外名勝地や工業地帶を連絡する乗合自動車は、放射的に向ふものさへ可及的環状道路の一部を使用し、現在では殆んど其の全線に互り運行せられ其の利用價値を益々増大するの勢である。              
 而して環状道路の使用に依る自動車運輸車業の成績極めて良好にして、本道路に近接伴行する鐵道軌道の經営に相當の影響を及ほすものある爲、近時は鐵道軌道に對する防衛又は培養線として各鐡道軌道會社も競うて自動車運輸事業を企圖するもの尠くない。現在環状道路に依る乗合自動車の運行は次の如き狀状態である。
 …一・三・七號線にては玉川乗合

とあるのだが(pp.172-173)、残念ながら、 「一・三・七號線」については、その道玄坂上から西については、もともと日東乗合の路線だったので、決定的なデータではない。

 もう少し、緻密に、昭和5年ころから9年ころまでの情報を探るしかないようである。

【追記】昭和7年

国会図書館デジタルアーカイブ中

東京市電気局・編「大東京区域内ニ於ケル交通機関ノ現勢 昭和7年7月末現在」同局/S07・刊 13丁目


では、書名に従えば、昭和7年7月時点で

東横乗合 路線#3:澁谷驛前-航空研究所-東北澤

は、元代々木乗合の路線なので、農大通り(現・文化村通り)経由だろうが

玉川乗合 路線#1:宮益坂下-淡島前-山崎
同    路線#2:宮益坂下―道玄坂上―淡島前
14丁
同    路線#3:宮益坂下―獣医校前―經堂

の3路線は、淡島通りを通り「道玄坂上」経由なので、元日東乗合の路線と考られ、
昭和7年7月からは、始終点が、中豊澤(=道玄坂上)から道玄坂を下った渋谷駅前まで延長されたと考えられる。
なお、同丁記載の大山道経由の西方からの路線も宮益坂下を終点としている。

S08 大日本職業別明細図「渋谷町」
渋谷駅周辺バスターミナル
黄色:東横乗合〔旧・代々木乗合〕
赤色:玉川乗合〔旧・日東乗合ほか〕
橙色:東京市営バス

 したがって、この時点までに先のとおり「環状道路の一部」の道玄坂道で「可及的に」運行を開始したのだろう。

 残るのは、昭和6年以前の状態である。

【余談】

■宮益坂の拡幅

 大山道沿いの駒沢地区に軍事施設が設けられるようになると、軍にとっては、道玄坂と同様に宮益坂も、その移動経路としての重要性に違いはない。

 とくに、一朝事あるときに、宮城警護に駆け付けなければならない近衛師団、とくに、重量物を移動する、輜重や砲兵についてはとりわけ切実な問題だったと想像される。

 近衛師団は、いわばその先駆けとして、1892(明治25)年に近衛輜重兵大隊が現・目黒区・駒場に、次いで、1898(明治31)年近衛野砲兵連隊、翌1899(明治32)年に野戦重砲兵第八連隊が現・世田谷区池尻に、さらに加えてそのナンバリングから見て首都圏の守備を想定していたと思われる、第一師団の野戦重砲兵第三旅団 野砲兵第一連隊も1898(明治31)年に池尻に設けられている。


M42測T05修測1/10000地形図_世田谷+三田〔駒澤輜重・砲兵抜粋〕


 折しも、近衛輜重兵大隊の設営に合わせるように、東京府の明治 24(1891)年12月3日の東京市区改正委員会で、宮益坂について「南豊島郡渋谷村元宮益町通道路取拡ノ件」として、以下の議案が可決されている


赤坂區青山南町通リハ市區改正設計中第二等進路ニ該當ノ箇所ニ有之全線ノ起工年度未定ニ候得共南町七丁目眼ヨリ南豊島郡澁谷村宮益橋ニ至ル道路ハ最モ峻坂ニシテ車馬往復ノ不便不少而巳ナラス同町以南目黒村近傍二ハ陸軍兵營散在シ行軍等ノ爲メ道路雑沓ヲ極メ行路危険ノ塲合モ有之候ニ付改正方取調候處右設針通リ全幅ヲ改正セントスルトキハ多額ノ費用ヲ要シ候ニ付別紙圖面ノ通リ先以テ六間道ニ改正候ハヽ通路ノ便宜ヲ得且經費モ不相嵩儀ニ付施行方取計可申ト存侯右御意見承度此段及御照會侯也
尚以本文改正經費ハ概算金壹萬千七百貳拾參圓參拾参錢ニ有之尤モ其半額ハ陸軍省へ支辨方請求ノ積リニ有之侯間此段申添候也

  【別紙圖面】


 もっとも、この拡幅は、明治39年に陸軍省から内務省に督促の末、漸く明治43年に実現したようである。

軍第三五号 三十九年弐第九六五号 工兵課 青山北町七丁目、渋谷橋間道路拡張ノ件 次官ヨリ内務次官ヘ照会案 赤坂区青山北町以西大山街道ノ義同町七丁目迄及渋谷橋以西ニ於ケル道路ハ既ニ拡張ノ事ニ相成居候得共其中間ナル七丁目ヨリ橋間ハ在来道路ノ侭ニシテ幅員@陸軍隊ノ@通之不便不尠候間該部分ヲモ為シ得ル丈ケ速ニ拡張セラルル御詮議相成度 送甲第五九四号 (本件ハ内務省ニ向ケテ該地方人民ヨリ出願ノ次第モ有之陸軍ニ於テモ必要ノ旨申込ベシ候ハ詮議ノ途アル故交渉ナリタキ旨同省大各地赴任官ヨリ内報アリタルニ由ル) 参照 七丁目迄ハ市区改正並市街鉄道ニテ拡張部分ニ属ス 橋以西ハ既ニ拡張シアリ* ※地図※


 

* 前記「明治33年ころの拡張」によるものだろうか

 



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