■牧野の…
自叙伝的著作の一つ「植物記」桜井書店/S18・刊 中
「亡き妻を想う」と題した一節のpp.395-397
に、以下のように書かれている。
大正の半ばすぎでした。上述のような次第でいろ/\經済上の難局にばかり直面し、幸ひその都度、世の中の義侠心に富んだ方々が助けに現れてやうやく通りぬけては來たものの、結局私たちは多人數の家族をかかへて生活してゆくには何とかして金を得なければならないと私は決心しました。それも煙草屋とか駄菓子屋のようなものではとても一同がやつてゆけさうにないが、一度は本郷の龍岡町へ菓子屋の店を出したこともあった。そこで妻の英斷でやり出したのが意外な待合なのです。これは私たちとしては随分思ひ切ったことであり、私が世間へ公表するのもこれが初めてですが、妻ははじめたった三圓の資金しかなかったに拘わらずこれでもって澁谷の荒木山に小さな一軒の家を借り、実家の別姓をとって“いまむら”といふ待合[*1]を初めたのです。私たちとは固より別居[*2]ですが、これがうまく流行って土地で二流ぐらゐまでのところまで行き、これでしばらく生活の方もややホッとして来たのですが、やはり素人のこととてこれも長くは續かず、終りにはとう/\悪いお客がついたため貸倒れになって遂に店を閉ぢてしまひましたが、このころ、私たちの周囲のものは無論次第にこれを嗅ぎ知ったので“大學の先生のくせに待合をやるとは怪しからん”などと私はさんざん大學方面で悪口をいはれたものでした。しかし私たちには全く疚しい気持はなかった。金に困ったことのない人たちは直ぐにもそんなことをいって他人の行動にケチをつけたがるが、私たちは何としてでも金を得て行かなければ生活がやってゆけなく全く生命の問題であったのです。しかもこの場合は妻が獨力で私たちの生活のために待合を營業したのであって、私たち家族とはむろん別居しているのであり、大學その他へこの點で、何等迷惑をかけたことは毫もなかったといってよいのです。それゆゑに時の五島學長もその邊能く了解しかつ同情して居て下されたのです。
かうしてとに角一時待合までやって漸く凌いで來たのち、妻は私に目下私たちの住んでいるこの東大泉の家をつくる計畫を立てくれたのです。妻の意見では都會などでは火事が多いから、折角私の苦心の採集になる植物の標本などもいつ一片の灰となってしまふか判らない。どうしても絶對に火事の危険性のない處といふのでこの東大泉の田舎の雑木林のまん中に小さな一軒家を建ててわれ/\の永遠の棲家としたのです。
【参考】
待合については、
が、歯切れがよくてわかりやすい。
家守し妻の恵やわが学び世の中のあらん限りやスエコ笹
「大日本職業別明細図 澁谷町」東京交通社/T14.12.08・刊
交番前から向側ーー即ち神泉谷道から反對の狭路へはいれば「冨士横丁」*で、料亭に福壽亭、松風がある、藝妓屋はすくなく小待合が多い
*坂下に、冨士信仰の扶桑教本部があったので、この名前が付いたようである。なお、この通り沿いは、神泉谷に次いで、後の円山町に先立つ、渋谷の花街の発祥の地だったらしい。
場所だったようで、牧野夫妻が大泉に移る前年の時期なので、売上金の焦げ付きに対処するため、家賃の低廉な地域の、規模も円山町の「小さな一軒の家」よりもさらに「小さな一軒の家」に移転して(料亭ではないので、板場は不要だし、広間も顧客次第で必要ではないので「しもたや」でも対応は可能なはず)、馴染み客を対象に営業を続けていたのではないかと想像される。
「土佐紳士録」海南社/T08・刊 p.31
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