2023-06-10

【余話】牧野富太郎夫妻と円山町

 ■牧野の…

自叙伝的著作の一つ「植物記」桜井書店/S18・刊

「亡き妻を想う」と題した一節のpp.395-397

 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1064158/1/203

に、以下のように書かれている。

 大正の半ばすぎでした。上述のような次第でいろ/\經済上の難局にばかり直面し、幸ひその都度、世の中の義侠心に富んだ方々が助けに現れてやうやく通りぬけては來たものの、結局私たちは多人數の家族をかかへて生活してゆくには何とかして金を得なければならないと私は決心しました。それも煙草屋とか駄菓子屋のようなものではとても一同がやつてゆけさうにないが、一度は本郷の龍岡町へ菓子屋の店を出したこともあった。そこで妻の英斷でやり出したのが意外な待合なのです。これは私たちとしては随分思ひ切ったことであり、私が世間へ公表するのもこれが初めてですが、妻ははじめたった三圓の資金しかなかったに拘わらずこれでもって澁谷の荒木山に小さな一軒の家を借り、実家の別姓をとって“いまむら”といふ待合[*1]を初めたのです。私たちとは固より別居[*2]ですが、これがうまく流行って土地で二流ぐらゐまでのところまで行き、これでしばらく生活の方もややホッとして来たのですが、やはり素人のこととてこれも長くは續かず、終りにはとう/\悪いお客がついたため貸倒れになって遂に店を閉ぢてしまひましたが、このころ、私たちの周囲のものは無論次第にこれを嗅ぎ知ったので“大學の先生のくせに待合をやるとは怪しからん”などと私はさんざん大學方面で悪口をいはれたものでした。しかし私たちには全く疚しい気持はなかった。金に困ったことのない人たちは直ぐにもそんなことをいって他人の行動にケチをつけたがるが、私たちは何としてでも金を得て行かなければ生活がやってゆけなく全く生命の問題であったのです。しかもこの場合は妻が獨力で私たちの生活のために待合を營業したのであって、私たち家族とはむろん別居しているのであり、大學その他へこの點で、何等迷惑をかけたことは毫もなかったといってよいのです。それゆゑに時の五島學長もその邊能く了解しかつ同情して居て下されたのです。

 かうしてとに角一時待合までやって漸く凌いで來たのち、妻は私に目下私たちの住んでいるこの東大泉の家をつくる計畫を立てくれたのです。妻の意見では都會などでは火事が多いから、折角私の苦心の採集になる植物の標本などもいつ一片の灰となってしまふか判らない。どうしても絶對に火事の危険性のない處といふのでこの東大泉の田舎の雑木林のまん中に小さな一軒家を建ててわれ/\の永遠の棲家としたのです。

【参考】

待合については、

はの字 「芸者一斑」磯部甲陽堂/M45・刊 pp.92- 「待合の研究」

が、歯切れがよくてわかりやすい。



家守し
妻の恵や
わが学び
世の中の
あらん限りや
スエコ笹



*1 “いまむら”といふ待合
 牧野の妻、壽衛は、元彦根藩士小澤一政と京都の花柳界の家で育った母との間の末娘(二女)らしいので*、母方の姓が「今村〔いまむら〕」である可能性は無いではない。


  しかし、
  「料理待合芸妓屋三業名鑑 : 附・貸座敷、公周旋 大正12年度」日本実業社/T11・刊
  の、「澁谷」「待合の部」p.143
  によれば、
 「牧野スエ」経営の待合は、「中澁谷647」所在の「大むら」となっている。


     



















東京逓信局「番地界入 澁谷町」〔通称・郵便地図〕逓信協会/M44・刊






























 もっとも、これだけの話なら、誤植の可能性も否定できないのだが、
「大日本職業別明細図 澁谷町」東京交通社/T14.12.08・刊
裏面の「待合」のリストでも、「御待合 大むら」

が、表面の地図の「レ十三」の範囲(下図赤四角内)の、待合が集中している地域内にあることなっている。





 



















 もっとも、実際の図中では、「大むら」は、おそらくこの明細図の編集中に移転した結果ではないかと思われるが、中澁谷599番地あたりと措定される図中の青四角の位置に表記されている。
 この道玄坂の通りの南側の地域も、
松川二郎「三都花街めぐり」誠文堂/S07・刊 p.112
によれば、大正期には北側の円山町と一体の花街で、昭和6年に分離したとのことで
交番前から向側ーー即ち神泉谷道から反對の狭路へはいれば「冨士横丁」*で、料亭に福壽亭、松風がある、藝妓屋はすくなく小待合が多い

*坂下に、冨士信仰の扶桑教本部があったので、この名前が付いたようである。なお、この通り沿いは、神泉谷に次いで、後の円山町に先立つ、渋谷の花街の発祥の地だったらしい。 

場所だったようで、牧野夫妻が大泉に移る前年の時期なので、売上金の焦げ付きに対処するため、家賃の低廉な地域の、規模も円山町の「小さな一軒の家」よりもさらに「小さな一軒の家」に移転して(料亭ではないので、板場は不要だし、広間も顧客次第で必要ではないので「しもたや」でも対応は可能なはず)、馴染み客を対象に営業を続けていたのではないかと想像される。


 いずれにしても、牧野壽衛が経営していた待合の実名は「大むら」と考えるべきだろう。

【参考】

ほぼ同時期の


渋谷円山町のリストは、その pp.129-138 にあり

T11/12/01現在

藝妓家 118軒
藝妓  310人
半玉   41人
幇間    5人

待合   97軒
料理店  38軒

の由。  


*2 私たちとは固より別居
 一方、壽衛と別居していたとされる、富太郎たちの住まいは、
「土佐紳士録」海南社/T08・刊 p.31
によって、澁谷町中澁谷353番地
前掲・東京逓信局「番地界入 澁谷町」〔通称・郵便地図〕逓信協会/M44・刊
 右端中央やや上の青□内

だったことが判明した。


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