2023-06-04

豊澤地蔵→道玄坂地蔵

 ■遷座概略図


~S07〔豊澤地藏〕
S07~S28〔道玄坂地藏:上通り4-9〕
S28~〔同上:現在地〕












■「道路改正」による移転 

時期:推定昭和7年ころ

後記「東京都公文書館・蔵「不動産買受の件豊多摩郡渋谷町上通 道玄坂巡査派出所移転用地」の昭和7年3月31日に地蔵と並んでいた道玄坂巡査派出所(現・道玄坂上交番)の移転先の用地取得が決定されていることから、同年春から夏ころの撤去が不可避だったと思われるため

 経緯:後記[※1]の道路改正(東京都市計画環状道路改修工事)

道路(大山道)を拡幅させるため、瀧坂道との追分の三角地帯から移転(遷座)させる必要が生じた

松川二郎「三都花街めぐり」誠文堂/S07・刊 p.115

澁谷の色地藏 今の神泉谷あたりは往時は「隠亡谷戸」と云って、火葬場だった處である。こゝで荼毘に附した亡者の冥福を祈る爲に建立した大きな地藏尊が、花街の入口、坂上の交番の隣りに『右 北澤道』などと書いた右〔石〕標と共に建ってゐた*のは奇觀であったが、道路改正[※1にあたって取除かれ、今日は澁谷劇場横に新らしく堂宇を作って祀られてゐる。背に「文化三年」**と刻んである。文化三年といへば春花秋雨こゝに百餘年、曩には火葬場への曲がり角冥界の道案内者、今は花街の守護佛?藝妓から赤いよだれ掛などを贈られて艶めかしく、地藏さまの定めて感無量であらう。將たそれとも、予が職掌は六道の能下、色の道だけは管轄外ぢゃと苦り切って在す乎。此の地藏さまと、力士のやうに肥った仲吉の「はだか甚句」などがまず道玄坂名物であらう。

 https://dl.ndl.go.jp/pid/1458091/1/64

Cf. 松川二郎「全国花街めぐり」誠文堂/S04・刊 p.146?

坂上の交番の隣りに『右 北澤道』など書いた石標と共に残って居るのをのを知る人があるや否や、背に「文化三年」と刻んである。文化三年といへば春花秋雨こゝに百餘年、曩には火葬場への曲り角に立って冥界の道案内者、今日は花街の守護佛?藝妓から赤いよだれ掛などを贈られて艶めかしく、地藏さまも定めて感慨無量であらう。將たそれとも、予が職掌は六道の能化、色の道だけは管轄外ぢゃと苦り切って兎に角花街の入口に、巡査とならんて地蔵尊の立つておはすは無類の奇観である ...

* 当時、道玄坂上の交番と地蔵と道標が並んで建っていた場所は、現在の道玄坂交番の瀧坂道を挟んで西向かいだったことは、

道玄坂上の大山道と瀧坂道の追分の地藏と傍示

https://nakashibuya.blogspot.com/2023/06/blog-post_2.html

中の

江戸近郊道しるべ

などに描かれている傍示の位置からわかる。

** 前掲の 

道玄坂上の大山道と瀧坂道の追分の地藏と傍示

https://nakashibuya.blogspot.com/2023/06/blog-post_2.html

に、あるとおり、この地蔵は、文化3年以前の

『彦根藩世田谷代官勤事録

『遊歴雑記

に記述があるので、「文化3年」が誤りであることは明らか。

(他にも、この「…花街めぐり」にはアヤシイ記述がないではないが、その検証が目的ではないので、ここでは無視することにする。) 

では、いつなのか、となると、現在も道玄坂地蔵像の背後に掲げられている、山野辺三行なる人物作の由緒書きに「寶永3年」とあるものの、これも、戦災で背部に刻まれていたらしい銘文が失われているとされていることから、現在では、山野辺がそう言っているだけで裏付はない。したがって「伝・寶永3年」とでもしておくのが正しいと思われる。


髙橋家・蔵「昭和7年2月 議事録綴 中「案内図」
前記「道玄坂巡査派出所」も移転済みである













[※1]道路改正

東京府土木部「東京都市計画環状道路改修工事報告書」同府/S08・刊

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1907000/1/4

1(等)、3(類)、7(號)道路

  • 着手 昭和5年10月 3日(p.54
  • 着工 昭和6年 6月20日(p.141
  • 竣工 昭和8年 9月20日(同上)
前掲「報告書」附図抜粋・編集
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1907000/1/137


精細版は
https://nakashibuya.blogspot.com/2023/06/blog-post.html

 上記2冊の松川の著作のうち、S04刊の「全国…」の時点では、地蔵は「坂上の交番の隣り」にあったのに対し、S07刊の「三都…」の時点では「澁谷劇場横に新らしく堂宇を作って祀られて」いたことになり、この間に「道路改正」が原因で遷座されたことがわかる。

 なお、同時に、前掲・各松川の「坂上の交番」つまり当時の道玄坂巡査派出所も、瀧坂道の西側から東側の現・道玄坂交番の位置に移転した。

東京都公文書館・蔵「不動産買受の件豊多摩郡渋谷町上通 道玄坂巡査派出所移転用地

同「不動産買受の件豊多摩郡渋谷町上通4丁目2 道玄坂巡査派出所移転用地として」

■山の手空襲による罹災

●復員局「全国主要都市戦災概況図 東京1」



同上凡例














●参考図(建物疎開地域)

日本地圖株式會社「コンサイス 東京都35區 區分地圖帖 戦災焼失區域表示」同社/S21・刊
「澁谷區」〔抜粋〕 

緑塗が建物疎開区域
赤塗が山の手空襲による罹災区域















【参考】

東京急行電鉄社史編纂委員会「東京急行電鉄50年史」同社/S48・刊 pp.325-326

本社建物の強制疎開

米軍による本土空襲が激しくなるに及んで政府は,都会における空襲の被害を最小限に食止めるため,昭和19年3月,閣議で一般都市疎開要項を決定した。そのため,市街地では,一部建物の強制疎闊が行なわれた。渋谷区でも駅周辺の建物が強制疎開の対象となり,当社の本社事務所(渋谷区大和田町1番地)も昭和19年2月にとりこわされ,以後,本社事務所は各所に移転・分散することとなった。…総務局田園都市課と経理局のうち,審査課を除いた大部分は東横百貨店4階に移った。…

本社事務所を東横百貨店内に移転

昭和20年5月24日, 25日の大空襲によって,本社・東横百貸店,清和会館,旧渋谷国民学校の本社分室が全焼した

「渋谷図書館郷土資料 写真集『渋谷の昔と今』」同館/S60・刊 p.25 写真番号25上
S20山の手空襲直後の道玄坂
左の中層建物は渋谷東宝映画劇場
【参照】
藤田佳世「渋谷道玄坂」彌生書房/1977・刊 pp.200-204 「大空襲」

 

■昭和25年11月 補修して再建立

  時期:現・地蔵像背後の掲出の、山野辺三行・作の由緒書きによる

  山野辺三行 → 南米新報 1941年6月18日号 3面第1段 参照

■昭和28年12月13日 現在地に再遷座 

  時期:像を支える六角台座側面の刻印による

  経緯:戦災復興院 昭和21年策定の「復興都市計画」に基づく土地区画整理事業
     が前建立地の上通四丁目9番地一帯に開始されたため

  【参照】東京都建設局/S31-34・刊 1/3000地形図「駒場」

  


【追記】

上掲のS31測量図とS22帝都地形図「上目黒北部」との重ね図を作ってみた。

黒線がS22図。赤線がS31図
中央の「場劇谷澁」の「場」と「劇」の間の★が道玄坂地蔵遷座地
従前の冨士横丁が大幅に拡幅され、地蔵が建立されていた公友会道/朝倉道
*は消滅した。

東京特別都市計画事業土地区画整理区域図」S32?〔抜粋〕
黄塗:昭和31年度迄移転完了区域  
橙塗:昭和32年度実施区域     
茶塗:昭和31年度迄街路工事完成区域
〇囲いの121区の赤点が地蔵の前建立地
前掲測量図はS31/09測図、同年度移転完了なので
地蔵建立地だった旧上通四-9の工事の最終期だったことがわかる
その前面が「公友会道」


* 公友会道(別名 朝倉道)

豊澤=道玄坂地藏の初回の遷座先が、この道路沿い。
戦後の区画整理でこの道路が無くなってしまうことが、2回目の遷座の要因らしい。
この道路の起源と消滅については、別ブログの以下にまとめた。 

DaikanYamaNores&Queries :「公友会道」の消滅


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