2023-06-03

道玄坂上の大山道と瀧坂道の追分の地藏と傍示

■江戸名所圖會 冨士見坂一本松














http://codh.rois.ac.jp/edo-spots/iiif-curation-finder/index.html?select=canvas&where_metadata_label=%E5%90%8D%E6%89%80%EF%BC%88%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E8%A1%A8%E8%A8%98%EF%BC%89&where_metadata_value=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%A6%8B%E5%9D%82&lang=en


【参照図】

柳亭種彦//撰 前北斎為一//図『鎌倉江嶋大山新板往来双六』

画面右下が宮益橋。そこから先が道玄坂でその右脇が宇田川と思われる。 

 大山詣での後「上がり」(=振り出し)の日本橋に戻る途中なので、西から東に、道玄坂を手前、宮益坂を奥に描くのが行程として素直な構図と思うのだが、右下の橋の向こうの往還脇に川が流れている(しかも、小さな橋(六反目橋、六溜橋、後の宇田川橋)が架かっている)こと、橋の手前ぎりぎりまで人家が密集していること(後記「江戸近郊道しるべ」参照)から手前が冨士見坂(宮益坂)、向こうが道玄坂と解釈するほかなさそう。

名所圖繪右上抜粋                          

中央上が大山道と瀧坂道の追分
地藏は不詳。傍示(道標)は読み取れる。













あるいは、こう











なのかもしれない。

■村尾嘉陵「江戸近郊道しるべ」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2577956/1/4
左葉「傍示」の場所が追分













https://dl.ndl.go.jp/pid/2577956/1/5
右葉右端「傍示」の場所が追分















■追分の「傍示」

松の柴折

宮益に出て道元坂*を下り小橋を渡れり、この流れは渋谷の川上にそ、左に水車あれとけふは盆の十六日なれハなりわひ休らふならハしにて音もせさりき、田面の繰り深くつゝき遠近曇りて暑さを凌よくしハし立休らひて、

   初秋の風に稲葉の露ちりて緑りすゝしき賤か千丁田

上渋谷村の茅屋つゝけるを過て長き坂あり、この半に山を開きて茶店三軒を出せり、新らしくもふけしなり、団扇に松の絵かきしを商ふもありき、池尻村にかゝりぬる右に石を建て上北沢村**の淡嶋明神の道を鐫(え)れり、この処には元よりの茶店三四軒あり、中に大きなる猿を継ぎ置り、うちミるに己かまゝに身のならされはさそくるしからん、道すから大山・富土なとへ群れ行人をミるにさそ楽しからんと察しぬ、仕へするミは一夜たによそへ宿りぬることもならす、この猿にも同し様なりと思ひやりて、

  つなかれす深山をさそな朝な夕思ひまさるとねにや啼らむ

*冨士見坂(宮益坂)の誤

** 下北澤村の誤 

〔世田谷区立郷土資料館・編「世田谷地誌集」同区教育委員会/S60・刊 pp.179-180〕

 ■追分の「地藏」

十方庵敬順「遊歴雑記」初篇の上「貳拾七 北澤村淡島の灸點」

一、武州瀬田ヶ谷領北澤村淡島大明神といふは、中澁谷道元坂の上石地藏より右に入て二十餘町、臺座村*といふより八町といえり…

* 代田村の飛地、俚俗・下代田、現・世田谷区代沢

推定:文化10(1813)年代初期 

https://dl.ndl.go.jp/pid/1912982/1/52

彦根藩世田谷代官勤事録:「187 殿様若殿様、豪徳寺御参詣節勤向留」


一、遠見人足五人、所謂遠見致居レト
〔ソウロウ〕 場所渋谷道玄坂之上石地蔵有之三ツ合辻ニ弐人居ル、


大場弥十郎景運(彦根藩世田谷代官大場家十代当主)/享和元(1801)年上梓

渡辺一郎・校訂「彦根藩世田谷代官勤事録」世田谷区誌研究会/S36・刊 pp.235-236


■「傍示」+「地藏」

松川二郎「三都花街めぐり」誠文堂/S07・刊 p.115

澁谷の色地藏 今の神泉谷あたりは往時は「隠亡谷戸」と云って、火葬場だった處である。こゝで荼毘に附した亡者の冥福を祈る爲に建立した大きな地藏尊が、花街の入口、坂上の交番の隣りに『右 北澤道』などと書いた右*と共に建ってゐたのは奇觀であったが、道路改正にあたって取除かれ、今日は澁谷劇場横に新らしく堂宇を作って祀られてゐる。背に「文化三年」と刻んである。文化三年**といへば春花秋雨こゝに百餘年、曩には火葬場への曲がり角冥界の道案内者、今は花街の守護佛?藝妓から赤いよだれ掛などを贈られて艶めかしく、地藏さまの定めて感無量であらう。將たそれとも、予が職掌は六道の能下、色の道だけは管轄外ぢゃと苦り切って在す乎。此の地藏さまと、力士のやうに肥った仲吉の「はだか甚句」などがまず道玄坂名物であらう。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1458091/1/64

*「石」の誤?

**  宝暦三(1753)年?

松川説のように文化3(1806)年建立とすると、前記「遊歴雑記」とは矛盾はないものの、前掲「世田谷代官勤事録」とは矛盾が生じる。

同書は、彦根藩主井伊家の当主らを、世田谷領内にある同家の菩提寺の豪徳寺に同領の大場代官が案内する際のマニュアルであり、その記載内容の信ぴょう性は非常に高い。 


地誌データ時系列順


●『彦根藩世田谷代官勤事録

巻九 殿様 若殿様、豪徳寺御参詣節勤向留〔187〕

 大場弥十郎景運

  彦根藩佐野領世田谷支領代官 大場家十代当主

 享和元(1801)年・上梓

   「渋谷道玄坂上、石地蔵有」

渡辺一郎・校訂「彦根藩世田谷代官勤事録」世田谷区史研究会/S36・刊〔吉川弘文館・発売〕

●『遊歴雑記

初編 巻之上 第二十七 北沢村淡島の灸点(全957項中)

 十方庵敬順

 文化10(1813)年~文政12(1829)年 内 推定:文化年間

「武州瀬田ヶ谷領北澤村淡島大明神といふは、中澁谷道元坂の上石地藏より右へ入て、二十餘町、臺座村といふより八町といえり」

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003194&ID=M2018041110534419469&TYPE= 

『江戸近郊道しるべ』/嘉陵紀行/四方の道草

第四編 北澤淡島社

 村尾嘉陵

徳川御三卿中清水家用人(実質的に幕臣) 

 文政三(1820)年庚辰五月八日遊

挿絵 「自道玄坂至下北澤村略圖」

追分に「傍示」を描く

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2577956/1/4

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2577956/1/5 

●『江戸名所図会 七』

 巻之三 天キ之部「富士見坂一本松」

 斎藤長秋[他] 

 1834年

右端近く中央よりやや上、追分に「傍示」が描かれている

http://codh.rois.ac.jp/kuronet/iiif-curation-viewer/?curation=https://mp.ex.nii.ac.jp/api/edo-spots/curation/json/4305574a-0f4d-4d6e-99bd-80dc87383b63&pos=281&lang=en

●『鎌倉江嶋大山新板往来双六』

 北斎

 天保5(1834)年以降

「前北齋為一」なので、卍、画狂老人を名乗り始めた天保5(1834)年から程無いころと思われる。なお、没年は嘉永21849)年。

https://www.touken-world-ukiyoe.jp/ukiyoe-artist/katsushika-hokusai/ 

●『松の紫折』

 作者不詳

   但し 元・昌平坂学問所地誌取調所 地誌取調出役

 時期不詳 但し、1850(嘉永3)年ころか?*

追分に石造の道標(傍示)有

「池尻村〔「上目黒村」の誤カ〕にかゝりぬる右に石を建て上北沢村〔「下北澤村」の誤〕の淡嶋明神の道を鐫(え)れり、この処には元よりの茶店三四軒あり、中に大きなる猿を継ぎ置り」

世田谷区立郷土資料館・編「世田谷地誌集」同区教育委員会/S60・刊 pp.177-194

*新篇武藏風土記稿

 の編年 1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完結

 のところ、文中に

余も廿年余りのあと地誌の公事にて都築郡より帰るさ同僚の小笠原氏と来たりし事もあり

と、ある。 


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