2023-07-08

「道玄坂地蔵」の復元・補修についての検討

■2023年7月7日

標記の課題について、すでに

空襲で罹災した石造物の修復

に、ここまでの検討過程を記載しておいたが、改めて、地蔵像の気になる部位を撮影してきた。

■全体像


■上半身

ネット上の写真でよく見られる口紅が薄れて、このアングルだと
十一面観音後頭部の「暴悪大笑面」 のようにも見えてしまう
本来の「
慈眼温容」の姿になるように
誰か紅を差してあげたほうがよいかもしれない



























* 道玄坂地蔵の口紅についての仮説 

■下顎部クローズアップ


左右で高さに目違いがあって「歯」として造形されたものでないことがわかる。
そもそも、この色は、顎などに見えるオリジナルの石材からは出ない。


【付記】 

この歯と紅については

で検討してみた。

■頭部


■左頭部


 左耳前から、高頬、眼窩さらにこめかみの辺りにかけての質感が、頬の自然石らしい部分とは異なる(右眼窩下にも同様の補修が行われた可能性がある)。

 像の背後に掲示されている山野辺三行による由来書では「慈眼温容」つまり、慈悲に富んだ目や温かな表情が「焼失」したとしているのは、すくなくともどちらかの目を含むこれらの部分が破損したことを指すのではないかと思われる。

 なお、モルタルを使用したような補修痕は、左後頭部にもいくつか見える。


■錫杖内側



 今回、最初に気付いたのはここ。右手を使って低い位置で支えられている錫杖の頂部と、胴体の胸の部分とをつないでいる接続部の質感である。
 画面左端の錫杖の頂部は、モルタル製でなく比較的光沢があって石造に見えるので、いわばオリジナルの豊澤=道玄坂地蔵の一部と思われる。
 それに加えて、その錫杖と胴体との接続部を見ると、細かい凹凸が見える。かりに、この部分に空襲によって損壊した錫杖頭部と胴体とを接合するためのモルタルを使用したとすれば、このような凹凸がそのまま放置されることは考えにくく、むしろ、オリジナルの部分の当初から存在した、石材を彫った際の鑿跡と考える方が素直に思える。

 もっとも、胴体とこの錫杖全体の間に、上下一直線状の補修痕らしきものがあり、あるいは、この錫杖がもげたのかもしれない。

■錫杖外側 

 

錫杖自体は、胸元と同質の自然石で、間違いなくオリジナルの状態である。

 これに対し、それを支える右袖の部分は、やや表面が荒れていて、余り目立たない部分であるし、地色の中に白点もあるようなので、前記のような錫杖と胴体の接続部のような鑿跡ではないかとも思えるが、補修痕の可能性も写真からでは否定はできない(とくに、画面左下隅の三角形の部分はモルタル系の色を呈しているように見えるし、オリジナルの石材とみられる部分との間に小さな隙間も見える)。

 いずれにしても、他の部位も含めてこれまで2回の撮影結果によって、いわば「目の付けどろ」が見えてきたので、改めて撮影器材を整備した上での、再度の細密な撮影が必要なのだが、こちら側は、像からみて右手前には大きな賽銭箱があるので、これ以上奥から撮影するのはなかなか難しい。

 さすがに、そこまで入り込んで写真を撮る度胸は普通は無いだろうから、ネット上で探してもこちら側からのアングルの写真は見当たらない。

 ■宝珠

 

 上記の頬の下部や錫杖頭部の白っぽい細かい鉱物片が混じる部分が、オリジナルの自然石のものと思われるし、この宝珠や左袖口の辺りも同様で、さらに、下掲の背部についてもフルサイズの写真を拡大して見ると、左肩口の辺りも、同様らしい。

■背部
2023/04/06撮影

 古い仏像の中には、新しい像の背部に、お厨子のような空間を設けて、従前の像をそこに収めて祀っている例を見たことがある(いわゆる胎内仏)
ので、それを想定して、木像ならともかく石仏なのでそもそもかなり無理があるかとは思ったものの、念のため確認はしてみたのだが「お厨子のような空洞」は見つからなかった。

■左肩口部分



上の写真肩の部分を切り出し、画像調整すると
肩口と袖の質感の差がわかりやすい


■台座部分

下から、須弥壇にあたる基壇部分、その上に六角台座、その上に蓮台がある。
蓮台は風化が進んでいないので、少なくとも豊澤地藏当時のものではないだろう。
基壇と六角台座は、後者側面の刻印から当地に再遷座された時のもの。
六角台座には、正面に「道玄坂地蔵」と刻まれ、側面に昭和28年12月13日の
ここへの遷座の日が刻まれている。
*

* 関係者から頂いた写真をみると
 「昭和貳拾八年
  拾貳月拾参日建之
  〓主 髙橋三枝」
 と刻まれていた。

  〓の部分には、通常なら「施」か「願」の文字があると思うのだが、

 文字があるのかどうかも判定しにくい。 


脚部の接合痕かと思われる部分



■結局…

昭和20年の空襲によって損傷し昭和25年に復元・補修された現在の道玄坂地蔵像は、胴体のとくに背面のかなりの部分が、各部位の接合や修復のために、モルタルで覆われていることは確かなようである。

背面は足許までモルタル色

 しかし、頭部の頬のような、濃いめのグレーの中に小さな白っぽい斑点が散っている
方解石・沸石を含む④のタイプではなかろうか
杏仁状玄武岩」と呼ぶらしいが、拳大程度の礫なら
多摩川や相模川の河原でも拾えるらしい。
ということは「そこいら中にいくらでもある」とまでは言えないものの
「さして珍しいわけでもない岩石」ということになるので、
石材の原産地や由来を特定するのは難しそうである。

場所はオリジナルの石材のように思われ、そうだとすると胴体の正面については、一部、たとえば錫杖と胴体の継目などに接合用のモルタルらしいものが見えるが、かなりの部分が豊澤=道玄坂地蔵のオリジナルの可能性があり、少なくとも、頭部、右手で支える錫杖、宝珠とそれを捧げる左腕の袖口や肩口などは、おそらく罹災後も形が残っていたために、オリジナルの豊澤=道玄坂地蔵像の状態のまま復元されたことは、まず間違いない。



■いわば…

今回は「目の付け所」が確定していない状態だったので、徹底的な資料写真は撮り切れていないが*、4月の撮影分を総合すると、損傷→補修部位は、下図の赤色線と橙色線の範囲に止まるのかもしれない。

*いろいろな意味で有名な地蔵尊なので、ネット上には、高解像度で、とくに光線の角度や強度についてさまざまなヴァリエーションの写真があり、とくに、像の表面に残る補修痕を示す色の変化のある箇所については、ある写真では全く目立たなくても、他の写真では明瞭にわかることもある。

たとえば、この写真では、他の写真では目立たなかった、錫杖と胴体の間の補修(接合)痕と思われる、モルタル色の線がはっきり見える。 

 1度や2度撮影に行っただけでは、とくに光線については、季節や時刻について、これだけ多種類の変化のある写真を得るのは難しいだろうと思う。

 

 

「上半身」は頭部を除き、おおむね「肩」の高さ
「脚部」は蓮台上面から30センチほど上の高さ
の水平断面を示す




 要するに、像の前面(正面)に関する限り、錫杖の根元の白っぽい部分は石の成分の析出による可能性もあるし、それが補修痕であるとしても、正面のそれは、足元を除けば、俗説に反して「あっけないほど」少ない。

 少なくとも、円筒形に近似したとすれば、正面120°の範囲は、脚部を除いて、オリジナルの石材がそのまま見える状態で復元されているのは確かなようなのである。

 したがって、現在地蔵像前に掲示されている説明書き
今回、改めて調べてみたが…
根拠・出典不明の記述が、余りに多い
ネット上には、この説明板に依拠した記述が多々見られるがが
「よい子は、決して『真に受けない』ように」


に書かれているような、今の「地蔵像中に〔従前の〕御本体を固めて上を綺麗にお化粧」するといった、あたかも従前からの地蔵尊をモルタルで封じ込めてしまうような「罰当たり」な復元・補修をしたわけではないことがほぼ間違いないことがわかり、安堵したのである。

 当初相談を受けたときは、上記の案内板の記載を真に受けてしまい、X線検査(ただし、この街中では難しいし、さすがに魂を一旦抜かなきゃまずいだろう)あるいは超音波検査まで想定していたのだが、ほぼ「よくよく見れば十分わかる」話だったので、今となっては一体どこから上記の案内板のような、よく言って「都市伝説」、悪くいえば「嘘八百」の話が生まれたのか、そちらの方がむしろ興味深い。

【追記】

道玄坂地蔵の、「よだれ掛け」の無い珍しい画像が ここ にあった 

地蔵 で僧形(比丘形)なので、袈裟(左肩に輪がある)をかけ

菩薩 なので、瓔珞(ネックレス)を着け

ている。

(これだけでも、旧中豊澤地蔵 が「かなり『気を入れて造仏されたように見えるので、「単なる野仏」ではなかったらしいようである)

右肩前面の表面の荒れを見ると、やはり戦災時に錫杖が捥げたのではないかと思う


像の前面に見える補修痕と思われる部位を橙色で示す

【追々記】

 残る課題は「足(先)」。

  地蔵菩薩像も(幽霊じゃないので)衣の下に両足先を出す。

 菩薩なのだから、衆生を救いに行くために、右足をほんの心持ち前に出した、あるいは、右の踵を上げ気味にして前に出そうとしているような姿が原則と思われる。

 手許の写真では、左足の足先があることは確認できるのだが、その形がわからない。


  写真の左足は像の本体から外れているように見えるが、右足を含めその形が確認できると、戦災で、この部分がどの程度損傷したのか、あるいは、全く失われ昭和25年の復元で新たに補足されたのか、などが推測できるのだろうが、像の前に固定されている献花台?があって写真が撮りにくく、その確認は難しそうだし、ここまで像全体の損傷と補修の状況がほぼ判明しているので、さらにそこまで調べる意味もなさそうである。

 

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