■道玄坂地蔵は…
当ブログの「豊澤地蔵→道玄坂地蔵」で解説したとおり、
可惜、 昭和廿年五月廿五日戦災に遭ひ、↓
慈眼温容、 省に刻れた宝永三年作の文字も焼失したが↓
往昔の俤を拝し得事は洵に幸甚の到也、↓
此度有志相謀り 套堂を修理、 縁日を定め祭祀を復する↓
に当り以拙筆縁起を録す。
昭和廿五年十一月
(↓は引用者挿入の改行)
たとされているので、顔が表情が変わるほど損傷したと考えられ
「省」というのは、松川二郎「三都花街めぐり」に「背に『文化三年』(ママ)と刻んである。」とあるので「背中」を意味すると思われ(ただし、字海や三省堂の大漢和辞典等を参照しても「省」に「背」「後」の意味はない)「焼失」とあるが、石像が火に焙られたために生じた損傷なので、刻まれた文字を含む部分が剥落したのだろう。
という程度までは読み取ることができる。
■一方…
修復・復元については
「往昔の俤〔おもかげ〕を拝し得」とされているので、顔の表情がかなりの程度まで復元され
「宝永三年作の文字」は復元されなかった
たらしい
という以上のことは不明であり、当然、その前提となる、顔と背中の文字以外の損傷個所は明らかでない。
■なお…
前記の由緒書きとは別に、堂の前に説明書きが立てられていて、そこには
昔のご本体は二度の火災で焼け崩れましたが、この地藏の中に御本体を固めて上をきれいにお化粧してあります
と書かれているが、髙橋家関係者にそのような話は伝承されていないようなので、その出典は不明であるし、以下のように、あまりに「乱暴」な補修方法でもある。
■そもそも…
損傷した地蔵像を、新たな像の中に、いわば「塗りこめ」てしまうというのは、かなり乱暴な話しで、それまでも300年近く前から近隣の信仰を集めてきたのだから、たとえ破損してたとしてもできるだけ原型に近い状態に戻すようにしたいはずだし(後記1の宇田川地蔵、3の西東京市の六地蔵)、もし修復が難しいのなら、少しでも形が残っている破片のままだけでも祀り続けようとするだろう(後記2の松見坂地蔵の地の庚申塔*、また、4の石棒さまもおそらく同様)。
*後述2の松見坂地蔵尊と並んで祀られてきた庚申塔下部はその典型例といえるだろう。少なくとも物理的に像の一部、破片だけでも残っている限り「仏性」従って「法力」は消えないはずなので。
■そこで…
この種の信仰の対象だった石造物が罹災した場合に、どのように対処されているのかを、少々調べてみた。
1 宇田川地蔵
現在は、渋谷区渋谷3丁目5-8の東福寺内の堂に納められている3体のうち、右端の像が、宇田川地蔵である。
もともとは、道玄坂下の今の公園通りとの交差点あたりの宇田川末流部にかかる宇田川橋
T07測1/5000分 東京府豊多摩郡澁谷町全圖〔道玄坂抜粋〕 赤矢印が「宇田川橋」。 ただし、伊能図中「江戸實測図」によれば「六反目ハシ」、目黒筋御場繪圖では「六溜橋」。 |
【参考】北斎『鎌倉江嶋大山新板往来双六』51コマ「渋谷」
推定:宇田川橋(六反目ハシ、六溜橋)と宮益橋(ふじミ橋) |
のたもとに立っていた、元禄元(1688)年に造立のこの地蔵は、明治40年ころ、宇田川の上を塞いで建物を建てるために「暗い道が、宇田川町を細く縫って代代木の原や衛戍監獄に続いていた頃の淋しい道のはた、今の西武デパートB館裏の高み」(後掲・藤田p.193)に移され、そこで戦災に遭ったことになる。
地蔵は、その後、昭和37(1962)年に宇田川町10-1に移され、さらに平成25(2009)年に現在地へと、
道玄坂下にあったこの地藏は、坂上にあった道玄坂地蔵以上の流転を経ていることになる。
この宇田川地蔵の罹災と修復については
藤田佳世「大正・渋谷道玄坂」青蛙房/S53・刊 の
「宇田川地蔵」中p.194に、以下のように記されている
昭和二十年五月、…直撃でも受けたのであろうか、お地蔵さまの胴体は腰のあたりから上下に離れ、顔もそがれ、肩も欠けた。右の手に立てていた錫杖も手首と共に飛んで、 ここにはなかった。いま、離れた胴はセメントで接がれ、身の丈だけは元に戻ったが、火を被った表面はもろくなりさわればざらざらと荒い感触の肌からこまかい砂がこぼれるのである。
つまり、この宇田川地蔵は、上下の胴体をモルタルでつないだ程度で、それ以上の修復は行わなかった模様で、この本が書かれたS53の時点ですでに風化が進んでいた様子だが、同書p.195にある地蔵像のスケッチと前掲「東福寺の…」掲載の写真を較べると、その後40年ほどの間にさらに風化がすすみ、今や「像のフォルムだけが残る」という状態にあるようである。
2 松見坂地蔵尊(と庚申塔)
滝坂道を西に進んで神泉谷から、かつて三田用水が流れていた渋谷川と目黒川の分水嶺を越えて急坂を下った先、目黒川支流の空川の谷底にある(旧)遠江橋のたもとに、
長谷川雪旦・画「江戸名所百景」中「冨士見坂一本松」の左下
に描かれている、松見坂地蔵がある。
【参考図】
この絵に描かれている、覆堂内にある地蔵座像と、その左上の庚申像も、山の手空襲で罹災したようであるが、目黒区が掲出している案内板によれば「元の地藏は昭和20(1945)年5月25日の空襲で被災したため、現在の石地藏の下に埋められたといいます」とある。
おそらくは、図の地藏は断片をかき集めても復元できないほど破壊され、また、その断片についても、後記の「石棒さま」以上に地蔵の一部とわかるほどの形の残っているものがなかったために、膨大な時間はかかるが「土に還す」という選択をしたのだと思われる*。
* 以下は、あくまで想像で、実際にそのような思想があったのかはわからない。
今の通常の(我が家のご先祖様の墓地は、ある意味非常に合理的というか、深く考えると「あるべき形」になっているが、今では一般化できない)、墓地を想定すると、墓石の下に納骨室があるが、通常は上部の墓石に向かって拝む。
考えようによっては、本来拝む対象は地中に納めれれている骨なのだが、その、いわば「アイコン」である墓石に向かって拝んいることになる。
庚申塔はさておいて(一部は地上にあって拝めるので)、松見坂地蔵尊については、本来拝むべき対象は、壊れたとはいっても、その破片は依然残っているので法力を持つ地中の地蔵尊であり、地上に戦後建立された「地藏『像』」は、そのアイコンでしかないのかもしれない。
これに対し、絵図左上の庚申塔については
や
庚申塔と地蔵尊(第5話)坂見地蔵・石橋供養塔・駒場地蔵尊 | 気まぐれなページ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
の堂内の写真のように、その左奥に庚申塔の下部の構成要素である「三申」の部分だけが祀られている。
堂内左奥 |
【余談】
中央の地藏像前の四角い燈明/線香台のようなもの。
妙に凝った蓮弁が叮嚀に彫りこまれており、元の地蔵像が立像なら、その蓮台は円形なのだろうが、「江戸名所…」によれば座像のようなので、そうならば蓮台は四角形だった可能性がある。
蓮台下の台座(須弥壇?)も全て四角柱であることも考えあわせると、あるいは、この燈明台は下図赤矢印の、元の地藏の蓮台だったのかもしれない。
こちらは、地蔵と異なり、庚申塔としては破壊されたものの、「三申」がほぼそのまま残存しているために、庚申塔の一部と一目でわかるこの部分を祀り続けることにしたのだろう。
考えようによっては、地蔵や庚申塔上部の青面金剛は空襲に耐えられなかったのに、この「三申」だけはほぼ完全に残っていたのだから、爾後も災厄除けとしての強い力を期待することができるわけだし、仮に塔全体を再建したくても、次の庚申の年(昭和55年)を待つことになるので、賢明な選択といえよう。
【参考】20120505撮影の「松見坂地蔵尊保存会」の掲示
3 西東京市泉町の宝樹院の六地蔵
近隣に中島飛行機武蔵野工場があるため一帯が爆撃対象となったうえ、焼夷弾(2種あるが)による市街地の爆撃と異なり、こちらは通常爆弾によって行われ、いわゆる流れ弾の一つが、ここ宝珠院境内に落ち、石造の六地蔵が全て破砕状態になったようである。
戦後住職が、その破片を集めて復元をはかったものの、2体の頭部だけはどうしても発見できず、石工に依頼して新しい頭部を作って補足したため、この地藏だけは他の4体とは顔つきが違うものになっているという。
背面にモルタルによる補修痕が見える
なお、1970年にその2体のうち1体の頭部が発掘されたらしい
oukanokizuna.web.fc2.com/cyukonhi/tokyo/nisitokyo-houjyuin-hibakujizo.html
4 中野区中央1丁目41-1 中野東中学校脇の「石棒さま」
この「石棒さま」もともとは、というより今でも、宝永5(1708)年10月建立の、青面金剛を配した円筒型の笠付の像で、像には「奉供養庚申講為二世安楽」と刻まれていたらしい*、年代的には庚申の年とは離れているが、元禄16(1703)年の相模トラフの元禄地震から、宝永4(1707)年の南海トラフの宝永地震を経て、とりわけに江戸の人々にとってはインパクトが大きい富士山の噴火に遭遇し、恐ろしさのあまり「あわてて」建立したものかもしれない。
*宝庫といえそうな、以下の佐伯の青面金剛塔群 中で類例を探してみたが、「笠付」はあるものの、さらに「円筒形」となると、それらしいものがなかなか見つけ出せなかった。
民俗の宝庫 > 庚申塔物語 > 庚申塔あれこれ > 庚申塔の形態 (xrea.com) も参照して、笠付かつ丸柱形は、かなり稀らしいのだが、
誠心寺の庚申塔(江戸川区江戸川): ぼのぼのぶろぐ (cocolog-nifty.com) の上から2葉目の写真、左側に笠付円柱形の庚申塔があった 〔江戸川区江戸川3丁目50−23〕
のような円柱形だとすると、罹災前から「石棒さま」と呼ばれていたのかもしれない。
いずれ見分したいと思うが、ネット上の写真でみても、ほとんどが破片を接合したといわれるモルタルの固まり。ただし、元の像が何面何臂の青面金剛なのかは不明だが、補修後の像の正面にいずれかの臂のような石が元の形を保って埋め込まれているようにも見える。
道玄坂地藏についても、表面の質感の違いから、右手に持つ錫杖の頭部や、左手とそれが捧げる宝珠、それに頭部の一部が、元の像のものではないかと想像しているのだが、この石棒さまは、その重要な参考例といえるのかもしれない。
参照 笠付円筒形の庚申塔(中野区中央): ぼのぼのぶろぐ (cocolog-nifty.com)
塔山庚申塔(石棒様) « あるいてネット -知れば知るほど面白い町・中野- (aruite.net)
東京都中野区内の石仏 中野区史料館資料叢書 p.29
【参考例】
お地蔵様の修復 | 茨城県桜川市で石燈籠、墓石、石仏・石造物、手水鉢の制作、歴史的石造物の修復のことなら | 加藤石材 (tourou.com)
この地蔵像、なぜここまで壊れたのか見当が付かないが、空襲で罹災した石造物の修復の例の中では、通常爆弾で損壊したの壊れ方に近いように見える(同ページ中の六地蔵の背面からの写真がわかりやすい)。しかし、渋谷への空襲は焼夷弾によるもののようなので、そこまではバラバラにはならなかったのではないかと思われる。ただ、25日の方は、東横百貨店や渋谷東宝など「硬い」建物もあるので、木造建物用のパーム油を使ったナパーム弾のほか、黄燐を使って高熱を発するタイプも併用していた可能性がある(富山の土蔵の多い地域で使われていたのを写真で見たことがある)。
ここからは、まだ想像の域を出ないが…
- 直撃に近い爆弾の炸裂などによって、足元の部分で2つに折れて、上部が「前のめり」に倒れ、顔面の一部や、もしかしたら錫杖あたりも捥げた(と、言っても、ナパーム弾も黄燐を使う焼夷弾も、筒状の弾を束状にしたクラスタ弾なので、筒の1本が当たっても、石地藏が折れて倒れるほどの力が加わるのかどうかとも思ったが、このタイプのナパーム弾のクラスタなら、いわば当たり所でそれも起こりそうに思われる)
- 前のめりに倒れたのがかえって幸いして、地面に近い前面の方は、焼夷弾による高熱を直接には受けず、それ以上の損傷は逃れた
- そのかわり、背面は一帯に渦巻く業火に延々とあぶられる結果になり、高熱によって背中の銘文だけでなく、背中のほぼ全面で石の表面が剥離した
- そのため、戦後、背中一面というか、そこから両側面にかけて全面的にモルタルを塗って補修しなければならなかったが
- 前面については、足元から上の部分は(左袖を除いて?)大きな補修痕を残さずに復元できた
といったところかと思われる。おそらく、昭和30年代までは、罹災した石仏の補修のニーズは高かっただろうから、結構手掛けてくれる業者は多かったのだろうが、今では、美術院国宝修理所が引き受けてくれるような国宝・重文クラスは別格として、この種の民間仏を手掛けてくれる業者さんは貴重な存在といえるだろう。
【追記】
一応辿りついた結論は、こちら
「道玄坂地蔵」の復元・補修についての検討
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