■よくよく…
考えてみると、普段身近に目にする野仏には、あらかたが、明るい灰色の石材が使われている。
こと、東京つまりかつての江戸の周辺に関する限り、それには相応の理由があるようで
佐久間阿佐緒「江戸石仏散歩」東京新聞出版局/S53・刊(以下「佐久間・江戸石仏」)
のpp.134-5に、以下のように解説されている
江戸石仏の↓
第一次隆盛期(元禄度〔1688-1704年〕)は、江戸城築城、修復のさいに伊豆相模方面から大量に江戸に運んだ石垣用の余り石いわゆる”御用石”を使用しての、空前絶後の量産石仏造立システムによって現出したものであった。石材は、ほとんどが小松石、横根沢石などの安山岩である。
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第二次隆盛期(ほぼ寛政度〔1789-1801年〕)には、さすがの御用石も底をついてきたらしく、さかんに房総産の凝灰質砂岩(堆積岩)が用いられた…
(赤字は引用者補入)
* 佐久間氏の詳細な論考は、
同氏「東京の石佛」鹿島出版会/S48・刊 pp.28-61
にある。
それなりに「なるほどそうかもしれないな」とは思うものの、何分、その前提の資料が示されていないので、
「そうだ」というのは難しい。
実際、前記、佐久間・江戸石仏をみてもそこまで踏み込んだ記述はない。
こちらは、新聞の連載記事を集成したものなので、紙幅の制約があったのは確かだが、
やはり、日刊新聞に掲載しようとしても、内容の論証不十分であることが否めなかったのではなかろうか。
新聞掲載のものは当然として、たとえネット上であっても、書いたモノを公表する以上は、最低限のレベルでもバックデータを示すのは不可欠で、それができなければ「単なる感想文」と評価されるのを覚悟したうえでする必要があると思う。
■道玄坂地蔵の…
建立は、寶永3〔1706〕年とされているので、上記の第1次隆盛期に属していて、江戸城の石垣に使われていた御用石〔産地が東伊豆(+西湘)であることから伊豆石とも呼ばれる〕の余材や端材が、江戸御府内にふんだんにあった時期といえる。
したがって、当時、石仏作る石材としては、余材、端材のため安価であるうえ、いわば江戸の至る所に残っているので遠距離を運搬する必要がないので輸送費も低廉で済むのだから、いわば理想的な素材だったはずでなのである。
■しかし…
この道玄坂地蔵の石材は、ほぼ黒に近い濃灰色である。
安山岩にもかなり濃色のものもある一方、玄武岩にも明るい灰色のものもあるので、それだけでは、どちらかは同定できないのだが、どちらにしても、黒い表面の一面に小さな白い斑点が浮かぶ石材というのは、野仏の石材としてそう見かけるものではない。
その候補とあげられるのは
であるが
杏仁状玄武岩の白点は、溶岩中の成分が気化した跡の空洞に周囲の水から白点の成分が入って固まるので丸みを帯びる
輝石安山岩の白点は、溶岩の状態で、一部の成分が先に結晶したものなので、角ばっている
らしい。
■玄武岩だとすると…
礫程度のサイズならば、多摩川や相模川の河原で収集できるらしいので、希少というほどではないが、東京周辺での分布は限られていて、富士山とその周辺地域・丹沢山地(多摩川、相模川の礫の起源だろう)、伊豆大島や初島程度に限られている。
このように、たとえば、多摩川の源流部近くまで遡ったり、伊豆大島から船を使えば*、道玄坂地蔵用の石材程度の大きさなら杏仁状玄武岩は入手できなかったわけではないだろうが、当時、安価に入手でき、また、佐久間・前掲のようにいわば標準的に使われていた伊豆石をあえて使わず、杏仁状玄武岩を探して使った理由はいったい何だったのだろうか。
*江戸市街に薪を供給するための舟運があった(柳田國男「武蔵野の昔」)
■安山岩系だとすれば、
前掲・佐久間・江戸石仏のとおり、江戸時代の初期から中期にかけて
に、詳細に解説されている、神奈川県真鶴の本小松石のほか、静岡県の伊豆半島の主にその東海岸の各所(石丁場)で切り出されて、舟運で江戸に運び込まれ
三浦浄心 (茂正) 「慶長見聞集 巻之九『唐船作らしめ給う事』」 (袖珍名著文庫 ; 巻25) PP.273-
一旦、江戸市中の、柳原 (現・千代田区外神田一丁目3あたり) や 本所壹ツ目 (現・墨田区両国二丁目2あたり)にあった御用石場に集積された後
江戸城の普請など
■しかし…
この地蔵像が彫られたといわれる宝暦3年当時、この種の野仏のための石材として最も入手が容易で、しかも輸送費を含めて最も安価に調達できる石材が、今でもどこでも目にすることができる、やや明るい灰色を呈する御用材→伊豆石→安山岩であることは、佐久間・前掲のとおり、ほとんど疑いない。
杏仁状玄武岩か、輝石安山岩かは一先ず措いても、なせ、こんな「真っ黒な石材」選んだあかりでなく、遠隔地から運んできたのかは、解明したいところなのである。
■なお…
輝石安山岩ならは、白点は、溶岩が固まる過程で含まれる成分が結晶することによって生じているので、角ばった形になるはずなのに対し、杏仁丈玄武岩の白点は、溶岩中に生じた気泡に後から水と共に他の成分が入り込んで固まったものなので、円形となるはずである。
写真で見る限り、地蔵像の白点は円形のように見える。
暑さも和らいだので、もう一度観察してこようとも思うのだが、それよりも、周辺の石仏などの類例探しをする方が効率的かもしれない。