2023-09-24

道玄坂地蔵の石材

 ■よくよく…

考えてみると、普段身近に目にする野仏には、あらかたが、明るい灰色の石材が使われている。

 こと、東京つまりかつての江戸の周辺に関する限り、それには相応の理由があるようで

佐久間阿佐緒「江戸石仏散歩」東京新聞出版局/S53・刊(以下「佐久間・江戸石仏」)

のpp.134-5に、以下のように解説されている

江戸石仏の

第一次隆盛期(元禄度1688-1704年〕)は、江戸城築城、修復のさいに伊豆相模方面から大量に江戸に運んだ石垣用の余り石いわゆる”御用石”を使用しての、空前絶後の量産石仏造立システムによって現出したものであった。石材は、ほとんどが小松石、横根沢石などの安山岩である。

: 

第二次隆盛期(ほぼ寛政度1789-1801年)には、さすがの御用石も底をついてきたらしく、さかんに房総産の凝灰質砂岩(堆積岩)が用いられた…

 (赤字は引用者補入)

* 佐久間氏の詳細な論考は、

 同氏「東京の石佛」鹿島出版会/S48・刊 pp.28-61

 にある。

  それなりに「なるほどそうかもしれないな」とは思うものの、何分、その前提の資料が示されていないので、

 「そうだ」というのは難しい。

   実際、前記、佐久間・江戸石仏をみてもそこまで踏み込んだ記述はない。

 こちらは、新聞の連載記事を集成したものなので、紙幅の制約があったのは確かだが、

 やはり、日刊新聞に掲載しようとしても、内容の論証不十分であることが否めなかったのではなかろうか。

 新聞掲載のものは当然として、たとえネット上であっても、書いたモノを公表する以上は、最低限のレベルでもバックデータを示すのは不可欠で、それができなければ「単なる感想文」と評価されるのを覚悟したうえでする必要があると思う。 

■道玄坂地蔵の…

建立は、寶永3〔1706〕年とされているので、上記の第1次隆盛期に属していて、江戸城の石垣に使われていた御用石〔産地が東伊豆(+西湘)であることから伊豆石とも呼ばれる〕の余材や端材が、江戸御府内にふんだんにあった時期といえる。

 したがって、当時、石仏作る石材としては、余材、端材のため安価であるうえ、いわば江戸の至る所に残っているので遠距離を運搬する必要がないので輸送費も低廉で済むのだから、いわば理想的な素材だったはずでなのである。

■しかし…

この道玄坂地蔵の石材は、ほぼ黒に近い濃灰色である。

 安山岩にもかなり濃色のものもある一方、玄武岩にも明るい灰色のものもあるので、それだけでは、どちらかは同定できないのだが、どちらにしても、黒い表面の一面に小さな白い斑点が浮かぶ石材というのは、野仏の石材としてそう見かけるものではない。

その候補とあげられるのは

 杏仁状玄武岩

 輝石安山岩

であるが

 杏仁状玄武岩の白点は、溶岩中の成分が気化した跡の空洞に周囲の水から白点の成分が入って固まるので丸みを帯びる

 輝石安山岩の白点は、溶岩の状態で、一部の成分が先に結晶したものなので、角ばっている

らしい。


■玄武岩だとすると…

礫程度のサイズならば、多摩川や相模川の河原で収集できるらしいので、希少というほどではないが、東京周辺での分布は限られていて、富士山とその周辺地域・丹沢山地(多摩川、相模川の礫の起源だろう)、伊豆大島や初島程度に限られている。

 このように、たとえば、多摩川の源流部近くまで遡ったり、伊豆大島から船を使えば*、道玄坂地蔵用の石材程度の大きさなら杏仁状玄武岩は入手できなかったわけではないだろうが、当時、安価に入手でき、また、佐久間・前掲のようにいわば標準的に使われていた伊豆石をあえて使わず、杏仁状玄武岩を探して使った理由はいったい何だったのだろうか。

*江戸市街に薪を供給するための舟運があった(柳田國男「武蔵野の昔」)

■安山岩系だとすれば、

前掲・佐久間・江戸石仏のとおり、江戸時代の初期から中期にかけて

江戸城築城石石丁場之覚 (chikujohseki.com)

に、詳細に解説されている、神奈川県真鶴の本小松石のほか、静岡県の伊豆半島の主にその東海岸の各所(石丁場)で切り出されて、舟運で江戸に運び込まれ

三浦浄心 (茂正) 「慶長見聞集 巻之九『唐船作らしめ給う事』」

 (袖珍名著文庫 ; 巻25) PP.273-

一旦、江戸市中の、柳原 (現・千代田区外神田一丁目3あたり) や 本所壹ツ目 (現・墨田区両国二丁目2あたり)にあった御用石場に集積された後

江戸城の普請など

【参照】早稲田大学出版部「国民の日本史 第9篇 江戸時代創始期」同部/S06-7 PP.75-

に使われた石材中の、寸法不良・破損などによる不良材、余材、端材(あのような巨大な石垣用の石から不要部分を割り取った残りから、普通の地蔵像程度の大きさの用材を採るのは造作もないだろう)の可能性が高い。

■しかし…

この地蔵像が彫られたといわれる宝暦3年当時、この種の野仏のための石材として最も入手が容易で、しかも輸送費を含めて最も安価に調達できる石材が、今でもどこでも目にすることができる、やや明るい灰色を呈する御用材→伊豆石→安山岩であることは、佐久間・前掲のとおり、ほとんど疑いない。

 杏仁状玄武岩か、輝石安山岩かは一先ず措いても、なせ、こんな「真っ黒な石材」選んだあかりでなく、遠隔地から運んできたのかは、解明したいところなのである。

■なお…

輝石安山岩ならは、白点は、溶岩が固まる過程で含まれる成分が結晶することによって生じているので、角ばった形になるはずなのに対し、杏仁丈玄武岩の白点は、溶岩中に生じた気泡に後から水と共に他の成分が入り込んで固まったものなので、円形となるはずである。

 写真で見る限り、地蔵像の白点は円形のように見える。

 暑さも和らいだので、もう一度観察してこようとも思うのだが、それよりも、周辺の石仏などの類例探しをする方が効率的かもしれない。


2023-09-05

道玄坂(宮益坂)関係地誌データ・リンク集


四ッ谷辺、青山辺、渋谷辺合図〔道玄坂・駒場御狩場抜粋〕



















■ 新編武藏風土記稿

麻布領 中澁谷村

 https://dl.ndl.go.jp/pid/763976/1/82

麻布領 中豊澤村

 https://dl.ndl.go.jp/pid/763976/1/86

渋谷宮益町在方分

 https://dl.ndl.go.jp/pid/763976/1/85

■御府内備考

宮益町

 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1214872/1/176

道玄坂町

 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1214872/1/177

広尾町飛地道玄坂

 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1214872/1/171

 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1214872/1/178


参考■江戸町方書上

渋谷町方書上(宮益町、道玄坂町)

 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/949623/1/187


■御府内場末往還其外沿革圖書

麻布村…上中下澁谷村、上中下豊澤村…碑文谷村 一圓之圖

 https://dl.ndl.go.jp/pid/2587256/1/1

■村絵図

豊島郡 四ッ谷辺、青山辺、渋谷辺合図 共十六枚之内 (帙書:江戸各郷村図 坤) ,

 https://dasasp03.i-repository.net/il/cont/01/G0000002tokyoarchv01/000/020/000020658.jpg

豊島郡 豊沢村図 共十六枚之内(帙書:江戸各郷村図 乾)

 https://dasasp03.i-repository.net/il/cont/01/G0000002tokyoarchv01/000/020/000020631.jpg


2023-07-22

「多摩川三十六地蔵」とは何か

■道玄坂地蔵のことを…

調べ始めて、最初に困ったのが、表題のような、地蔵などの巡礼地を示す、いわばナンバリング・リストである。

 あまりに有名な、四国八十八か所をはじめとして、この種のナンバリングされた札所や霊場は、数多くあるようなのだが…

全国霊場紹介 | 全日本仏教会 (jbf.ne.jp)

関東圏の地藏菩薩霊場は掲載されていない

◆地蔵菩薩霊場について - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com)

↑のうち、★江戸地蔵菩薩霊場三十六ヶ所 - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com) について、

・東京市史稿にて、地蔵菩薩霊場として紹介されている36ヶ所。

・江戸砂子、続江戸砂子に掲載されているところから抄出されたもの。

とあったので、検索してみたところ…

東京市・編纂『東京市史謄本園 第二章』同市/S04・発行 pp.83-

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1915721/1/56

に、江戸砂子(正・続)掲載の、「都人が佛参シタル重ナル寺院」に触れられ、その pp.97-

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1915721/1/63

に地藏霊場がリストアップされていた。

もっとも「遊園編」の一節「都人ノ四季遊觀」の場としてのリストで、いわゆる物見遊山の地としての紹介の域を出ていない。

多摩川…、多摩…あるいは、玉川…を冠する地蔵霊場/札所は、後記【付記2】の詳細不明な「玉川六地蔵霊場」にほかは、なかなか見当たらない。

 ほかに類似性のありそうなのは

★都筑橘樹二十五地蔵霊場 - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com)

玉川八十八ヶ所霊場の案内 (tesshow.jp)

 あたりだが、地域的には、前者は神奈川県北部、後者もそれらに加えて世田谷を含む荏原郡以南で、豊澤=道玄坂地藏の所在する豊多摩郡澁谷は含まれない。

■この種の…

ニッチな調べ物については、さすがの google でも歯が立たないのはいわば常識なので、手間暇はかかるが

・学術論文系の

CiNii Research

・最近、全文検索が可能になった

国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

・そして、いわば最後の手段

Google ブックス

 でチェックしたが、発見できない。

 あとは、

江戸・東京札所辞典

江戸・東京 札所めぐり 御朱印を求めて歩く 巡礼ルートガイド | ジェイアクト |本 | 通販 | Amazon

目次は「試し読み」で確認できるが、地蔵については、江戸六地蔵のみ

◆出典・参考資料の案内 - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com)

地蔵霊場リスト中「ふる里関東路…」の明細は ふる里関東路 百八地蔵尊霊場めぐり | 山地の住人 (ameblo.jp)

下泉全暁「地蔵菩薩」春秋社/2015・刊 巻末の「全国地蔵霊場一覧」

先ほど届き、数ページ読んだだけですごい本だとはいうことはわかったが(さすが、著者は、京大工学部卒の僧侶)、地蔵霊場については、関東地方について紹介されているのは「関東百八地蔵霊場」のみ 

大法輪閣・編「全国霊場巡拝事典」同社/1997・刊

出版元で目次を見ると、関東では「江戸六地蔵」「鎌倉二十四地蔵霊場」のみ

大路 直哉「日本巡礼ガイドブック」/2001・刊

Amazonの「試し読み」で見ると、「地蔵霊場・札所」の紹介はない

といった書籍を渉猟するほかなさそうだったのだが、調べてみると上記の本は望み薄。

■そのうえ…

そもそも、この道玄坂地蔵に関する記述にも、細かくみるとヴァリエーションがある。成立順にいえば、

1  地藏背後 山野辺三行・書/刻 由緒書 S25/11

道玄坂を中心とした一帯に現存する石碑には徳川時代の物多くこの地蔵尊は寶永三年(約二百卅余年前)の作で、その頃道玄坂を起点とした多摩川卅三番地蔵第一番札所であった。

2 東京都渋谷区「新修渋谷区史〔中巻〕」同区/S41・刊 p.1455

殊に坂上にあった豊沢地藏(道玄坂地藏)は、宝氷三(一七〇六)年の古さを持つもので、多摩川三十六地藏の一そして四の日の縁日には大いににぎわい、大正四(一九一一五)年頃から七、八年頃は極盛であった。

3 樋口清之「史実江戸〔第3巻〕」芳賀書店/S42・刊 p.246

坂上にあった豊沢地蔵(道玄坂地蔵)が宝永三年の古きを持つ多摩川三十六地蔵の一で、信仰が盛でありましたので、その四ノ日の縁日は大変にぎわい、これが最近まであった道玄坂の夜店の因をなしました。

4 地藏堂前立札 説明書

この地蔵様は、約三〇〇年前に建てられた玉川街道と大山(さ?)んを結ぶ三十三番霊所一番札所のお地蔵様です

■そもそも「札所」か?

 上記のうち「札所」としているのは「1」と「4」だが、「4」が立てられたのは「三〇〇年前」とあるとおり、平成期、それも、判明しているその経緯から東電OL事件後なので、33という数も一致している(もっとも、この数は、廃寺、移転などにより時代によって変動しうるので、こだわる意味はない)ことから「1」を踏襲したものであることは疑いない。

 札所は、「原義」では、お札を「納める」場所である。

*今になって唐突に思い出したが、わらべ唄の「通りゃんせ」の歌詞も

この子の七つのお祝いに

お札を納めに参ります

なのである。

歴史と哲学の県立熊谷図書館 =資料案内= (pref.saitama.jp)

●出雲地方

札打ち

 https://tansacs.org/matsue-fudauchi/

千社札の原型だろうか 

なお、 

仁王像にこんなことしたの誰だ? 赤札だらけの北区田端「東覚寺」 - TRiP EDiTOR

お札の貼られた百地蔵②-袖ヶ浦市のパワースポット - 光と影の軌跡Ⅱ (goo.ne.jp) 

 

●四国八十八箇所

納札

https://ohenrocar.com/%E7%B4%8D%E6%9C%AD%E3%81%AE%E4%BE%A1%E6%A0%BC/

とはいっても、お札を配付する場合はもちろん、納める場合でも相応の設えは必要だが、下記の江戸時代末期の紀行文のように堂宇があるわけではない野仏なので、そのような場所とは考えにくい。

「松の紫折」 作者不詳〔ただし、元・昌平坂学問所 地誌取調所 地誌取調出役。つまり「幕府の学芸員」〕 

世田谷区立郷土資料館・編「世田谷地誌集」同区教育委員会/S61・刊 所収

「池尻村〔「上目黒村」の誤カ〕にかゝりぬる右に石を建て上北沢村〔「下北澤村」の誤〕の淡嶋明神の道を鐫(え)れり、この処には元よりの茶店三四軒あり、中に大きなる猿を継ぎ置り」p.179

↑【参照】

「余も廿年余りのあと地誌の公事にて都築郡より帰るさ同僚の小笠原氏と来たりし事もあり」p.180

とあるので、 

新篇武藏風土記稿

=1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完結

の、地誌取調出役だった人物が「廿年余りのあと」(「あと」の原義はこの場合「前」)といえる時期に当地を再訪したことになる→∴1850(嘉永3)年ころ作

 加えて、札所の初番とされていることも「眉唾もの」もので、その信ぴょう性を低下させている。と、いうのは道玄坂の坂下には宇田川地蔵が建立されていたのであるから、「1」の多摩川、「4」の「玉川街道」あるいは「大山(道)」のどれを措定するにせよ、豊澤=道玄坂地蔵が初番となる合理性はないのである。 

 さらに、道玄坂の大山道と瀧坂道の追分の場所も、朱引線内、つまり、江戸御府内なので、立地の面でも豊澤地藏と宇田川地蔵とでは差異がないのであって、朱引き外の郷村にあたる荏原郡以南を対象としていると思われる、前記の、玉川八十八ヶ所霊場 の方が、切り分けとしては筋が通っている。

■結局…

残るのは「2」「3」ということになるが、「3」の著者の樋口國學院大教授は、「2」の編集責任者なので「2」を踏襲して当然といえる(ただし、「3」で触れている毎夜開かれる「道玄坂の夜店」と、盛況だったことは確からしいが、せいせい「4の日」だけ開催の豊澤=道玄坂地藏の縁日とは直接の関連はない)

 結局、最後に残るのは「多摩川三十六地蔵」なる「リスト」の存否なのであるが、お札を納める必要も戴く必要も無いのなら、いわば観念的な「括り」に止まるので、ある程度の人々の信仰を集める場所であれば、このようなリストが成立してもおかしくはない。

 しかし、地蔵といっても、寺院内に安置されているものならば、寺院名を示せば一応は足りるだろうが、野仏については、その巡礼の助けになるような何らかの案内書きが不可欠になってくるだろうし、そのようなものがあれば、何らかの痕跡が後世に残るはずなのであるが、先に検討したとおり、それが見つからないのである。

 とはいえ、「2」は、区史という公式な書物なのであるから、何の史料も根拠もなしに、先のように記述されることもまたあり得ない。

 そうなると、当地の「口伝」。たとえば、「この地蔵は、かつて、多摩川三十六地蔵の一つだった」といった、実際の根拠は薄い伝承がこの界隈の古老にあって、それに依拠したと推定するほかなさそうである。

 その裏付けとして、もう一つ重要な問題点がある。

 「多摩…」であろうが「多摩川…」であろうが、さらに「玉川…」であろうが、その地蔵群の一番札所/霊場が豊澤地蔵であるならば、二番以降の札所/霊場は、間違いなくそこから南の多摩川方向、つまり、荏原郡に「無ければばらない」。

国立公文書館・蔵「目黒筋御場絵図」〔部分〕より










 しかも、西に隣接する荏原郡内の上目黒村内に仮に数か所あったとしても、そこから西の多摩川方面は、池尻村、池澤村、三宿村、代田村、下北澤村などを始めとする現世田谷区内にあったはずなのだが、その地に、この種の札所/霊場群についての「伝承が全く残っていないことは、まず、あり得ない」からである。

【付記1】

「玉川」を冠する地蔵霊場として「玉川六地蔵」なるものが伝承されていることがわかった。

★玉川六地蔵霊場 - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com)

残念ながら、伝承が残るのは、かつては三軒茶屋にあった地蔵1尊だけで、しかも全体が30超えとはされてはないのだが

グラフ世田谷 vol.31 S61冬号 の 「世田谷ノート7 石地藏の話」に若干の解説があった。

 (地蔵が)子どもと緑が深い仏だということで子育て地蔵とか子安地蔵と呼ぶお地蔵さんが出てきます。子どもを抱いた姿につくられたりもしました。世田谷で子どもとのかかわりを名称に残すのは…夜泣き地蔵〔註:世田谷区船橋4-39-32 宝性寺門前〕と円泉寺(太子堂3-30-8)の子育て地蔵です。

 円泉寺の子育て地蔵にはそれなりの由来があったのかもしれませんが、今では不明です。このお地蔵さんは昭和四十三年まで三軒茶屋駅近くの、玉川通り東側の辻(太子堂1-12-23)にあり、道路工事で円泉寺に移されました。引越し以前は毎月四の日と八の日に地蔵縁日がにぎやかにたったものです。

 …六地蔵には京六地蔵や江戸六地蔵(東都六地蔵)のように、都市の入口にあたる要所六か所に一体ずつまつり、これを巡拝する形のものがあります。この、札所めぐりふうの六地蔵詣でに似たものが、かつての世田谷にもあったようです。といいますのは、円泉寺の子育て地蔵には「玉川六地蔵の四番目」という話が残っているからです。しかし残念ながら玉川六地蔵なるものの実体は目下のところわからずじまいです。(p.28)

 このような伝承が残るのは、現在は、太子堂の円泉寺にある1791(寛政3)年造の子育て地蔵で、これが4番札所の地藏ということだけは伝えられているのだが(他の札所は不明)、その地蔵の元々の所在地が、三軒茶屋近くの、豊澤地藏と同じように大山道沿いだった(ただし、こちらは「追分」ではないし(現在の三軒茶屋の追分よりもかなり東にあるし、そもそも、ここが追分になったのは、そこから用賀方面を結ぶ新道ができた文化・文政期〔1804-1830以降なの、寛政3〔1,741〕年建立と伝えられる地蔵は無関係)、迅速測図(M30修測図)などを見ると、明治期にできた駒澤練兵場の外周道路の大山道への取付部のようなのでさらに新しく、「賽」あるいは「辻」といえる古道との接続部はここよりやや西にあるので、明治期より前は、また別の場所にあったのだろうか)。

M13測M30修測 迅速測図 内藤新宿〔抜粋・註釈補入〕











 また、1/3000帝都地形図「太子堂」日本地形社/S22 の、該当の場所に、同シリーズの「北澤」図の「地藏」「庚申」との注記のある場所と同じ記号が振られている。









 それでも、前記4のリストが実在するなら、その札所の一つとしての有力候補ではあるのだが…

 こと世田谷区内に関する限り、地蔵に限らず石仏は寺院なり他の石仏の脇に集約されてしまっているものが多く、元々の所在地が特定できるだけでも奇蹟に近いことなので、これだけでも大きな収穫なのである。

 


【参考】世田谷地蔵マップ (takuichi.net)

 なお、大月桂月「東京遊行記」大倉書店/M39・刊 の「八十八ヶ所詣」


 ■昨日…

佐久間阿佐緒「東京の石佛」鹿島出版会/S48

が届いた。

 著者は画家なので、構図などの整った美しい写真が多く、楽しめるのはよいのだが、「器量よしの観音像」の写真が圧倒的に多くを占めていて、残念ながら地蔵像のそれの数は少ないし、地蔵像に限らず石質も道玄坂地藏のようなものは見当たらない。

 ただ、

「多摩川については、以前から、登戸、府中のあたり、大田区、世田谷区の川沿いなどを、スポット調査のようなことをしていたが、将来、できれば、この点を、一本の線につなげてみたいと思っている。これには、まだまだ、多くの時間と暇が必要だろう。」(p.126)

た、

 多摩川の「川筋に、より多くの、江戸府内出来の石仏墓標があるはずだ」との仮説を立て

「この、三、四年来、わたくしは、多摩川の両岸を、行きゆ、戻りつしながら、裏付け調査を続けている。」(p.128) 

ともされている。

 同じ著者が5年後に著した「江戸石仏散歩」東京新聞出版局/S53 を発注済なので、そちらに期待したいところである。

追記:

 前記「江戸石仏散歩」が届いた。

 同書は、東京新聞への連載記事をまとめたもののようであるが、こちらは「東京の…」と違い、原則として所在地が記載されているのが有難いのだが、世田谷区のそれは豪徳寺、九品仏といったいわば名刹の境内地の墓石仏と目されるものが主だった。



【付記】

一般的には

三十三か所→観音霊場

三十六か所→不動明王霊場

という例が多いのに対し、地蔵霊場は

6、24、48、それに108、まれに28か所という傾向がある模様だが

◆地蔵菩薩霊場について - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com

36は、岡崎市、伝承としてなら米子市

38は、三浦市

にある。


2023-07-19

道玄坂地蔵の口紅についての仮説

 ■ネット上の写真では…

かなり濃く紅が差されているものも多いのだが

去る、2023年7月8日に…

撮影した折の道玄坂地蔵の口紅は、かなり薄れていて
















まるで、十一面観音像の後頭部の「暴悪大笑面」 のように、歯を剥いて笑ってるようにも見えて、少々驚いた。


■口許のクローズアップ

よく見ると、この「歯」ように見える部分は、左右で上下の目違いがあることから
当初から「歯」として造形されたものでないことがわかる。

そもそも、この部分の色は、顎などに見えるオリジナルの石材からは出ない。





















【補記】
 
明王の牙とか、元仏敵あるいは釈迦の出家前の家臣(文官、武官、女官)を模したものが多い天部、たとえば 東大寺の増長天 などについては別の話として、如来や菩薩で歯を見せている像というのは拝観したことがないし、稀有というほどでは無いにしても非常に少ないはずなので、少し探してみた。

なお、仏像の概略の解説(あくまでその入口だが)は、こちら

 

●歯吹如来

「歯吹…」と付くのは阿弥陀如来に限られ、かつ、定義された名詞のようだが

口を少し開き歯を少し見せている阿弥陀如来像で、『無量寿経』に、弥陀微笑をもらし、口中から光を出して十方*照らした、とあるのを起源とするらしい鎌倉期以降)。

( 歯吹阿弥陀とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 )

* 十方=八方+上下 

なお、歯吹如来の造形意図についての論考は

長谷川正康「歯吹如来造像の疑問点について」日本歯科医史学会会誌 Vol.4-2 pp.54-59 

だが、歯吹阿弥陀如来は全国でも10数例しかない由。

 極楽寺(東京都八王子市)― 微笑んで来迎!歯吹きの阿弥陀如来 – 祇是未在 (butszo.jp)

木造歯吹の阿弥陀如来立像 | 文化遺産検索 | とやまの文化遺産 (toyama-bunkaisan.jp)

大阪市:木造阿弥陀如来立像 1軀 (…>大阪市指定文化財>大阪市指定文化財(指定年度別)) (osaka.lg.jp) 

●健歯観音

こちらは、地蔵と同じ菩薩である十一面観世音菩薩像だが、上歯を少し見せているだけでも、極めて異例とされている

 広島県福山市鞆町の地蔵院蔵

* 宇治平等院の壁に配されている雲中供養菩薩は阿弥陀如来のいわば眷属とはいえ、中には歯の見えるものもあるらしい 

●馬頭観音 

馬頭観世音菩薩は、柔和相と憤怒相との2態のうち、中世期に武士の信仰を集めた影響で、密教では馬頭明王とも呼ばれる*、明王のような憤怒相を示すために、その場合は「歯を剥いた」形相となることも多いようである。

5 馬頭観音 – 祈りの刻跡 (bukkou.com) 

   歴史を訪ねて 目黒の馬頭観音 目黒区 (city.meguro.tokyo.jp) 

   木造馬頭観音坐像 – TOKAMACHI CITY MUSEUM (tokamachi-museum.jp)

■ネット上の…

道玄坂地蔵の写真では、結構濃厚に紅が差されているものが多い。その場合、上の写真で紅が薄れてピンク~ベージュ色の部分は上唇に見えるので、地蔵菩薩像として異例の歯を見せる姿にならないので、口紅があるためにかえって特段の違和感が感じられないのである。

たとえば、#道玄坂地蔵 Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com 中の この写真 

 この像の口の部分を、側面からみると








































このような状態で、下唇がややふっくらと盛り上がっている(地蔵像ひいては仏像としては、それほど「ふっくら」している方ではないと感じるが)のに対し、正面からは歯に見えてしまう部分を上唇と「見立てる」と、「ふっくら」どころか削げ落ちているようにも見える。

■豊澤地藏として…

建立された、寶永3年からこのような姿だったとすると、とくに正面からの姿は、像の背後に掲げられている、山野辺三行なる人物作の由緒書きにある「慈眼温容」とも言いにくいことから、以下は、まだ想像の域を出ないが…

  • 約300年前に建立されたときは、口を噤んだ通常の地藏菩薩像だったが
  • ある時期に、像の上唇の部分が損傷し
可能性としては、昭和20年5月24-25日の山の手空襲の時というのが一番高い
  • その部分は一旦補修されたが
戦災による損傷については、昭和25年に、補修痕から推定して、背部、脚部や左眼窩の周辺などを始めとしてかなり丁寧な補修が行われているので、その部分をそのままにしておいたとは考えにくい
  • 補修部分が剥がれ落ちた
歯にも見える、元の黒っぽい石材よりも色の浅い部分は、補修用のモルタルが残っているのではないだろうか

のが、現在の姿なのではなかろうか。

 おそらくは、この「歯」のように見える部分のために「暴悪大笑相」のように見えてしまう違和感を解消するために、いつしか紅が差されるようになったのではないか。

 また、松川二郎「三都花街めぐり」誠文堂/S07・刊 p.115 には
澁谷の色地藏」と題して「大きな地藏尊が、花街の入口、坂上の交番の隣りに『右 北澤道』などと書いた右〔石〕標と共に建ってゐた」「今は花街の守護佛?藝妓から赤いよだれ掛などを贈られて艶めかしく、地藏さまも定めて感無量であらう。
と記されているだけで、その容姿についてはとくに言及はないが、昭和7年ころまでの、瀧坂道への追分の豊澤地蔵尊の時代を知る人にとっても、紅が差されていててもさほどの違和感はなかったかもしれない。

■この地蔵…

今では、俗に「泰子地蔵」とも呼ばれており、平成9(1997)年3月19日に発覚した、いわゆる「東電OL殺人事件」の被害者を供養するために紅を差している人がいる可能性はあるが、紅の起源は、ここまでに記したようにその事件よりさらに遡るように思われる。

 いずれにしても、他にも気になる補修の痕らしきものもあるので、今度また機会を見つけて、もっと近くから詳細な資料用の写真を撮る必要がありそうである。

2023-07-08

「道玄坂地蔵」の復元・補修についての検討

■2023年7月7日

標記の課題について、すでに

空襲で罹災した石造物の修復

に、ここまでの検討過程を記載しておいたが、改めて、地蔵像の気になる部位を撮影してきた。

■全体像


■上半身

ネット上の写真でよく見られる口紅が薄れて、このアングルだと
十一面観音後頭部の「暴悪大笑面」 のようにも見えてしまう
本来の「
慈眼温容」の姿になるように
誰か紅を差してあげたほうがよいかもしれない



























* 道玄坂地蔵の口紅についての仮説 

■下顎部クローズアップ


左右で高さに目違いがあって「歯」として造形されたものでないことがわかる。
そもそも、この色は、顎などに見えるオリジナルの石材からは出ない。


【付記】 

この歯と紅については

で検討してみた。

■頭部


■左頭部


 左耳前から、高頬、眼窩さらにこめかみの辺りにかけての質感が、頬の自然石らしい部分とは異なる(右眼窩下にも同様の補修が行われた可能性がある)。

 像の背後に掲示されている山野辺三行による由来書では「慈眼温容」つまり、慈悲に富んだ目や温かな表情が「焼失」したとしているのは、すくなくともどちらかの目を含むこれらの部分が破損したことを指すのではないかと思われる。

 なお、モルタルを使用したような補修痕は、左後頭部にもいくつか見える。


■錫杖内側



 今回、最初に気付いたのはここ。右手を使って低い位置で支えられている錫杖の頂部と、胴体の胸の部分とをつないでいる接続部の質感である。
 画面左端の錫杖の頂部は、モルタル製でなく比較的光沢があって石造に見えるので、いわばオリジナルの豊澤=道玄坂地蔵の一部と思われる。
 それに加えて、その錫杖と胴体との接続部を見ると、細かい凹凸が見える。かりに、この部分に空襲によって損壊した錫杖頭部と胴体とを接合するためのモルタルを使用したとすれば、このような凹凸がそのまま放置されることは考えにくく、むしろ、オリジナルの部分の当初から存在した、石材を彫った際の鑿跡と考える方が素直に思える。

 もっとも、胴体とこの錫杖全体の間に、上下一直線状の補修痕らしきものがあり、あるいは、この錫杖がもげたのかもしれない。

■錫杖外側 

 

錫杖自体は、胸元と同質の自然石で、間違いなくオリジナルの状態である。

 これに対し、それを支える右袖の部分は、やや表面が荒れていて、余り目立たない部分であるし、地色の中に白点もあるようなので、前記のような錫杖と胴体の接続部のような鑿跡ではないかとも思えるが、補修痕の可能性も写真からでは否定はできない(とくに、画面左下隅の三角形の部分はモルタル系の色を呈しているように見えるし、オリジナルの石材とみられる部分との間に小さな隙間も見える)。

 いずれにしても、他の部位も含めてこれまで2回の撮影結果によって、いわば「目の付けどろ」が見えてきたので、改めて撮影器材を整備した上での、再度の細密な撮影が必要なのだが、こちら側は、像からみて右手前には大きな賽銭箱があるので、これ以上奥から撮影するのはなかなか難しい。

 さすがに、そこまで入り込んで写真を撮る度胸は普通は無いだろうから、ネット上で探してもこちら側からのアングルの写真は見当たらない。

 ■宝珠

 

 上記の頬の下部や錫杖頭部の白っぽい細かい鉱物片が混じる部分が、オリジナルの自然石のものと思われるし、この宝珠や左袖口の辺りも同様で、さらに、下掲の背部についてもフルサイズの写真を拡大して見ると、左肩口の辺りも、同様らしい。

■背部
2023/04/06撮影

 古い仏像の中には、新しい像の背部に、お厨子のような空間を設けて、従前の像をそこに収めて祀っている例を見たことがある(いわゆる胎内仏)
ので、それを想定して、木像ならともかく石仏なのでそもそもかなり無理があるかとは思ったものの、念のため確認はしてみたのだが「お厨子のような空洞」は見つからなかった。

■左肩口部分



上の写真肩の部分を切り出し、画像調整すると
肩口と袖の質感の差がわかりやすい


■台座部分

下から、須弥壇にあたる基壇部分、その上に六角台座、その上に蓮台がある。
蓮台は風化が進んでいないので、少なくとも豊澤地藏当時のものではないだろう。
基壇と六角台座は、後者側面の刻印から当地に再遷座された時のもの。
六角台座には、正面に「道玄坂地蔵」と刻まれ、側面に昭和28年12月13日の
ここへの遷座の日が刻まれている。
*

* 関係者から頂いた写真をみると
 「昭和貳拾八年
  拾貳月拾参日建之
  〓主 髙橋三枝」
 と刻まれていた。

  〓の部分には、通常なら「施」か「願」の文字があると思うのだが、

 文字があるのかどうかも判定しにくい。 


脚部の接合痕かと思われる部分



■結局…

昭和20年の空襲によって損傷し昭和25年に復元・補修された現在の道玄坂地蔵像は、胴体のとくに背面のかなりの部分が、各部位の接合や修復のために、モルタルで覆われていることは確かなようである。

背面は足許までモルタル色

 しかし、頭部の頬のような、濃いめのグレーの中に小さな白っぽい斑点が散っている
方解石・沸石を含む④のタイプではなかろうか
杏仁状玄武岩」と呼ぶらしいが、拳大程度の礫なら
多摩川や相模川の河原でも拾えるらしい。
ということは「そこいら中にいくらでもある」とまでは言えないものの
「さして珍しいわけでもない岩石」ということになるので、
石材の原産地や由来を特定するのは難しそうである。

場所はオリジナルの石材のように思われ、そうだとすると胴体の正面については、一部、たとえば錫杖と胴体の継目などに接合用のモルタルらしいものが見えるが、かなりの部分が豊澤=道玄坂地蔵のオリジナルの可能性があり、少なくとも、頭部、右手で支える錫杖、宝珠とそれを捧げる左腕の袖口や肩口などは、おそらく罹災後も形が残っていたために、オリジナルの豊澤=道玄坂地蔵像の状態のまま復元されたことは、まず間違いない。



■いわば…

今回は「目の付け所」が確定していない状態だったので、徹底的な資料写真は撮り切れていないが*、4月の撮影分を総合すると、損傷→補修部位は、下図の赤色線と橙色線の範囲に止まるのかもしれない。

*いろいろな意味で有名な地蔵尊なので、ネット上には、高解像度で、とくに光線の角度や強度についてさまざまなヴァリエーションの写真があり、とくに、像の表面に残る補修痕を示す色の変化のある箇所については、ある写真では全く目立たなくても、他の写真では明瞭にわかることもある。

たとえば、この写真では、他の写真では目立たなかった、錫杖と胴体の間の補修(接合)痕と思われる、モルタル色の線がはっきり見える。 

 1度や2度撮影に行っただけでは、とくに光線については、季節や時刻について、これだけ多種類の変化のある写真を得るのは難しいだろうと思う。

 

 

「上半身」は頭部を除き、おおむね「肩」の高さ
「脚部」は蓮台上面から30センチほど上の高さ
の水平断面を示す




 要するに、像の前面(正面)に関する限り、錫杖の根元の白っぽい部分は石の成分の析出による可能性もあるし、それが補修痕であるとしても、正面のそれは、足元を除けば、俗説に反して「あっけないほど」少ない。

 少なくとも、円筒形に近似したとすれば、正面120°の範囲は、脚部を除いて、オリジナルの石材がそのまま見える状態で復元されているのは確かなようなのである。

 したがって、現在地蔵像前に掲示されている説明書き
今回、改めて調べてみたが…
根拠・出典不明の記述が、余りに多い
ネット上には、この説明板に依拠した記述が多々見られるがが
「よい子は、決して『真に受けない』ように」


に書かれているような、今の「地蔵像中に〔従前の〕御本体を固めて上を綺麗にお化粧」するといった、あたかも従前からの地蔵尊をモルタルで封じ込めてしまうような「罰当たり」な復元・補修をしたわけではないことがほぼ間違いないことがわかり、安堵したのである。

 当初相談を受けたときは、上記の案内板の記載を真に受けてしまい、X線検査(ただし、この街中では難しいし、さすがに魂を一旦抜かなきゃまずいだろう)あるいは超音波検査まで想定していたのだが、ほぼ「よくよく見れば十分わかる」話だったので、今となっては一体どこから上記の案内板のような、よく言って「都市伝説」、悪くいえば「嘘八百」の話が生まれたのか、そちらの方がむしろ興味深い。

【追記】

道玄坂地蔵の、「よだれ掛け」の無い珍しい画像が ここ にあった 

地蔵 で僧形(比丘形)なので、袈裟(左肩に輪がある)をかけ

菩薩 なので、瓔珞(ネックレス)を着け

ている。

(これだけでも、旧中豊澤地蔵 が「かなり『気を入れて造仏されたように見えるので、「単なる野仏」ではなかったらしいようである)

右肩前面の表面の荒れを見ると、やはり戦災時に錫杖が捥げたのではないかと思う


像の前面に見える補修痕と思われる部位を橙色で示す

【追々記】

 残る課題は「足(先)」。

  地蔵菩薩像も(幽霊じゃないので)衣の下に両足先を出す。

 菩薩なのだから、衆生を救いに行くために、右足をほんの心持ち前に出した、あるいは、右の踵を上げ気味にして前に出そうとしているような姿が原則と思われる。

 手許の写真では、左足の足先があることは確認できるのだが、その形がわからない。


  写真の左足は像の本体から外れているように見えるが、右足を含めその形が確認できると、戦災で、この部分がどの程度損傷したのか、あるいは、全く失われ昭和25年の復元で新たに補足されたのか、などが推測できるのだろうが、像の前に固定されている献花台?があって写真が撮りにくく、その確認は難しそうだし、ここまで像全体の損傷と補修の状況がほぼ判明しているので、さらにそこまで調べる意味もなさそうである。

 

2023-07-02

空襲で罹災した石造物の修復例

 ■道玄坂地蔵は…

当ブログの「豊澤地蔵→道玄坂地蔵」で解説したとおり、


昭和7年ころ、大山道と瀧坂道の追分、現在の道玄坂交番の南西向かいから、大山道の筋向いの、上通四丁目9番地に遷座され

その地で、昭和20年5月24・25日の「山の手空襲」で罹災している。

その後、地蔵像は、昭和25年11月までに修復されたが、その罹災状況と修復の経緯については、現在、像の背後の掲げられている、山野辺三行なる人物の手になる由緒書きの末尾に書かれているのだが、

可惜、 昭和廿年五月廿五日戦災に遭ひ、 
慈眼温容、 省に刻れた宝永三年作の文字も焼失したが 
往昔の俤を拝し得事は洵に幸甚の到也、 
此度有志相謀り 套堂を修理、 縁日を定め祭祀を復する
に当り以拙筆縁起を録す。
昭和廿五年十一月
は引用者挿入の改行)

との程度に止まり、損傷についてはある程度まではわかるが、その修理方法については全くわからない。

■すなわち…

損傷については

・「慈眼温容」つまり「慈目」や「温容」が失われ
たとされているので、顔が表情が変わるほど損傷したと考えられ
・ 「省」に「刻れた宝永三年作の文字」が「焼失」し
  たとされているが
「省」というのは、松川二郎「三都花街めぐり」に背に『文化三年』(ママ)と刻んである。」とあるので「背中」を意味すると思われ(ただし、字海や三省堂の大漢和辞典等を参照しても「省」に「背」「後」の意味はない)
「焼失」とあるが、石像が火に焙られたために生じた損傷なので、刻まれた文字を含む部分が剥落したのだろう。

という程度までは読み取ることができる。

■一方…

修復・復元については 

「往昔の俤〔おもかげ〕を拝し得」とされているので、顔の表情がかなりの程度まで復元され

 「宝永三年作の文字」は復元されなかった

たらしい

という以上のことは不明であり、当然、その前提となる、顔と背中の文字以外の損傷個所は明らかでない。

■なお…

前記の由緒書きとは別に、堂の前に説明書きが立てられていて、そこには

昔のご本体は二度の火災で焼け崩れましたが、この地藏の中に御本体を固めて上をきれいにお化粧してあります

と書かれているが、髙橋家関係者にそのような話は伝承されていないようなので、その出典は不明であるし、以下のように、あまりに「乱暴」な補修方法でもある。

■そもそも…

損傷した地蔵像を、新たな像の中に、いわば「塗りこめ」てしまうというのは、かなり乱暴な話しで、それまでも300年近く前から近隣の信仰を集めてきたのだから、たとえ破損してたとしてもできるだけ原型に近い状態に戻すようにしたいはずだし(後記1の宇田川地蔵、3の西東京市の六地蔵)、もし修復が難しいのなら、少しでも形が残っている破片のままだけでも祀り続けようとするだろう(後記2の松見坂地蔵の地の庚申塔*、また、4の石棒さまもおそらく同様)。

*後述2の松見坂地蔵尊と並んで祀られてきた庚申塔下部はその典型例といえるだろう。少なくとも物理的に像の一部、破片だけでも残っている限り「仏性」従って「法力」は消えないはずなので。

■そこで…

この種の信仰の対象だった石造物が罹災した場合に、どのように対処されているのかを、少々調べてみた。

1 宇田川地蔵

 現在は、渋谷区渋谷3丁目5-8の東福寺内の堂に納められている3体のうち、右端の像が、宇田川地蔵である。

 もともとは、道玄坂下の今の公園通りとの交差点あたりの宇田川末流部にかかる宇田川橋

T07測1/5000分 東京府豊多摩郡澁谷町全圖〔道玄坂抜粋〕
赤矢印が「宇田川橋」。
ただし、伊能図中「江戸實測図」によれば「六反目ハシ」、目黒筋御場繪圖では「六溜橋」。














【参考】北斎『鎌倉江嶋大山新板往来双六』51コマ「渋谷」

推定:宇田川橋(六反目ハシ、六溜橋)と宮益橋(ふじミ橋)

のたもとに立っていた、元禄元(1688)年に造立のこの地蔵は、明治40年ころ、宇田川の上を塞いで建物を建てるために暗い道が、宇田川町を細く縫って代代木の原や衛監獄に続いていた頃の淋しい道のはた、今の西武デパートB館裏の高み」(後掲・藤田p.193)に移され、そこで戦災に遭ったことになる。

 地蔵は、その後、昭和37(1962)年に宇田川町10-1に移され、さらに平成25(2009)年に現在地へと、

東福寺の石仏<2>(宇田川地蔵/渋谷区渋谷): ぼのぼのぶろぐ (cocolog-nifty.com)

道玄坂下にあったこの地藏は、坂上にあった道玄坂地蔵以上の流転を経ていることになる。

 この宇田川地蔵の罹災と修復については

 藤田佳世「大正・渋谷道玄坂」青蛙房/S53・刊 の

「宇田川地蔵」中p.194に、以下のように記されている

昭和二十年五月、…直撃でも受けたのであろうか、お地蔵さまの胴体は腰のあたりから上下に離れ、顔もそがれ、肩も欠けた。右の手に立てていた錫杖も手首と共に飛んで、 ここにはなかった。いま、離れた胴はセメントで接がれ、身の丈だけは元に戻ったが、火を被った表面はもろくなりさわればざらざらと荒い感触の肌からこまかい砂がこぼれるのである。

  つまり、この宇田川地蔵は、上下の胴体をモルタルでつないだ程度で、それ以上の修復は行わなかった模様で、この本が書かれたS53の時点ですでに風化が進んでいた様子だが、同書p.195にある地蔵像のスケッチと前掲「東福寺の…」掲載の写真を較べると、その後40年ほどの間にさらに風化がすすみ、今や「像のフォルムだけが残る」という状態にあるようである。

2 松見坂地蔵尊(と庚申塔

 滝坂道を西に進んで神泉谷から、かつて三田用水が流れていた渋谷川と目黒川の分水嶺を越えて急坂を下った先、目黒川支流の空川の谷底にある(旧)遠江橋のたもとに、

長谷川雪旦・画「江戸名所百景」中「冨士見坂一本松」の左下


に描かれている、松見坂地蔵がある。

【参考図】





 この絵に描かれている、覆堂内にある地蔵座像と、その左上の庚申像も、山の手空襲で罹災したようであるが、目黒区が掲出している案内板によれば「元の地藏は昭和20(1945)年5月25日の空襲で被災したため、現在の石地藏の下に埋められたといいます」とある。

 おそらくは、図の地藏は断片をかき集めても復元できないほど破壊され、また、その断片についても、後記の「石棒さま」以上に地蔵の一部とわかるほどの形の残っているものがなかったために、膨大な時間はかかるが「土に還す」という選択をしたのだと思われる*

* 以下は、あくまで想像で、実際にそのような思想があったのかはわからない。

 今の通常の(我が家のご先祖様の墓地は、ある意味非常に合理的というか、深く考えると「あるべき形」になっているが、今では一般化できない)、墓地を想定すると、墓石の下に納骨室があるが、通常は上部の墓石に向かって拝む。

 考えようによっては、本来拝む対象は地中に納めれれている骨なのだが、その、いわば「アイコン」である墓石に向かって拝んいることになる。

 庚申塔はさておいて(一部は地上にあって拝めるので)、松見坂地蔵尊については、本来拝むべき対象は、壊れたとはいっても、その破片は依然残っているので法力を持つ地中の地蔵尊であり、地上に戦後建立された「地藏『像』」は、そのアイコンでしかないのかもしれない。

 これに対し、絵図左上の庚申塔については

松見坂地蔵尊(目黒区大橋): ぼのぼのぶろぐ (cocolog-nifty.com)

庚申塔と地蔵尊(第5話)坂見地蔵・石橋供養塔・駒場地蔵尊 | 気まぐれなページ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

の堂内の写真のように、その左奥に庚申塔の下部の構成要素である「三申」の部分だけが祀られている。













 

堂内左奥



 











 









 

【余談】

中央の地藏像前の四角い燈明/線香台のようなもの。

妙に凝った蓮弁が叮嚀に彫りこまれており、元の地蔵像が立像なら、その蓮台は円形なのだろうが、「江戸名所…」によれば座像のようなので、そうならば蓮台は四角形だった可能性がある。

蓮台下の台座(須弥壇?)も全て四角柱であることも考えあわせると、あるいは、この燈明台は下図赤矢印の、元の地藏の蓮台だったのかもしれない。


 こちらは、地蔵と異なり、庚申塔としては破壊されたものの、「三申」がほぼそのまま残存しているために、庚申塔の一部と一目でわかるこの部分を祀り続けることにしたのだろう。

 考えようによっては、地蔵や庚申塔上部の青面金剛は空襲に耐えられなかったのに、この「三申」だけはほぼ完全に残っていたのだから、爾後も災厄除けとしての強い力を期待することができるわけだし、仮に塔全体を再建したくても、次の庚申の年(昭和55年)を待つことになるので、賢明な選択といえよう。

【参考】20120505撮影の「松見坂地蔵尊保存会」の掲示












3 西東京市泉町の宝樹院の六地蔵

 近隣に中島飛行機武蔵野工場があるため一帯が爆撃対象となったうえ、焼夷弾(2種あるが)による市街地の爆撃と異なり、こちらは通常爆弾によって行われ、いわゆる流れ弾の一つが、ここ宝珠院境内に落ち、石造の六地蔵が全て破砕状態になったようである。

 戦後住職が、その破片を集めて復元をはかったものの、2体の頭部だけはどうしても発見できず、石工に依頼して新しい頭部を作って補足したため、この地藏だけは他の4体とは顔つきが違うものになっているという。

参照 ちょっと能学堂/前庭/野外展示/東京の六地蔵 (fiberbit.net)

     背面にモルタルによる補修痕が見える

   75 東京大空襲関連の石仏・石碑(2) - 石仏散歩 (goo.ne.jp)

   なお、1970年にその2体のうち1体の頭部が発掘されたらしい

oukanokizuna.web.fc2.com/cyukonhi/tokyo/nisitokyo-houjyuin-hibakujizo.html

4 中野区中央1丁目41-1 中野東中学校脇の「石棒さま」

 この「石棒さま」もともとは、というより今でも、宝永5(1708)年10月建立の、青面金剛を配した円筒型の笠付の像で、像には奉供養庚申講為二世安楽」と刻まれていたらしい*、年代的には庚申の年とは離れているが、元禄16(1703)年の相模トラフの元禄地震から、宝永4(1707)年の南海トラフの宝永地震を経て、とりわけに江戸の人々にとってはインパクトが大きい富士山の噴火に遭遇し、恐ろしさのあまり「あわてて」建立したものかもしれない。

*宝庫といえそうな、以下の佐伯の青面金剛塔群 中で類例を探してみたが、「笠付」はあるものの、さらに「円筒形」となると、それらしいものがなかなか見つけ出せなかった。

民俗の宝庫 > 庚申塔物語 > 庚申塔あれこれ > 庚申塔の形態 (xrea.com) も参照して、笠付かつ丸柱形は、かなり稀らしいのだが、

誠心寺の庚申塔(江戸川区江戸川): ぼのぼのぶろぐ (cocolog-nifty.com) の上から2葉目の写真、左側に笠付円柱形の庚申塔があった 〔江戸川区江戸川3丁目50−23

青面金剛(東京都江戸川区江戸川3丁目50番23 誠心寺) - Download Free 3D model by seirogan (@seirogan) [afd0534] (sketchfab.com) 

のような円柱形だとすると、罹災前から「石棒さま」と呼ばれていたのかもしれない。

  いずれ見分したいと思うが、ネット上の写真でみても、ほとんどが破片を接合したといわれるモルタルの固まり。ただし、元の像が何面何臂の青面金剛なのかは不明だが、補修後の像の正面にいずれかの臂のような石が元の形を保って埋め込まれているようにも見える。

 道玄坂地藏についても、表面の質感の違いから、右手に持つ錫杖の頭部や、左手とそれが捧げる宝珠、それに頭部の一部が、元の像のものではないかと想像しているのだが、この石棒さまは、その重要な参考例といえるのかもしれない。

参照 笠付円筒形の庚申塔(中野区中央): ぼのぼのぶろぐ (cocolog-nifty.com)

   塔山庚申塔(石棒様) « あるいてネット -知れば知るほど面白い町・中野- (aruite.net)

東京都中野区内の石仏 中野区史料館資料叢書 p.29

(19) tmi on Twitter: "石棒さま。 中野区中央にある「庚申塔」。 戦災でバラバラになった石棒をセメントで貼り合わせている。 頭に傘が乗っており、見ようによってはちょっと変な想像も💦。 いつも生花🌼が活けてあり地元に親しまれている。


【参考例】

お地蔵様の修復 | 茨城県桜川市で石燈籠、墓石、石仏・石造物、手水鉢の制作、歴史的石造物の修復のことなら | 加藤石材 (tourou.com)

この地蔵像、なぜここまで壊れたのか見当が付かないが、

空襲で罹災した石造物の修復

の例の中では、通常爆弾で損壊した


の壊れ方に近いように見える(同ページ中の六地蔵の背面からの写真がわかりやすい)。

 しかし、渋谷への空襲は焼夷弾によるもののようなので、そこまではバラバラにはならなかったのではないかと思われる。
ただ、25日の方は、東横百貨店や渋谷東宝など「硬い」建物もあるので、木造建物用のパーム油を使ったナパーム弾のほか、黄燐を使って高熱を発するタイプも併用していた可能性がある(富山の土蔵の多い地域で使われていたのを写真で見たことがある)。

 ここからは、まだ想像の域を出ないが…
  • 直撃に近い爆弾の炸裂などによって、足元の部分で2つに折れて、上部が「前のめり」に倒れ、顔面の一部や、もしかしたら錫杖あたりも捥げた(と、言っても、ナパーム弾も黄燐を使う焼夷弾も、筒状の弾を束状にしたクラスタ弾なので、筒の1本が当たっても、石地藏が折れて倒れるほどの力が加わるのかどうかとも思ったが、このタイプのナパーム弾のクラスタなら、いわば当たり所でそれも起こりそうに思われる)
  • 前のめりに倒れたのがかえって幸いして、地面に近い前面の方は、焼夷弾による高熱を直接には受けず、それ以上の損傷は逃れた
  • そのかわり、背面は一帯に渦巻く業火に延々とあぶられる結果になり、高熱によって背中の銘文だけでなく、背中のほぼ全面で石の表面が剥離した
  • そのため、戦後、背中一面というか、そこから両側面にかけて全面的にモルタルを塗って補修しなければならなかったが
  • 前面については、足元から上の部分は(左袖を除いて?)大きな補修痕を残さずに復元できた
といったところかと思われる。

 おそらく、昭和30年代までは、罹災した石仏の補修のニーズは高かっただろうから、結構手掛けてくれる業者は多かったのだろうが、今では、美術院国宝修理所が引き受けてくれるような国宝・重文クラスは別格として、この種の民間仏を手掛けてくれる業者さんは貴重な存在といえるだろう。


【追記】

一応辿りついた結論は、こちら

「道玄坂地蔵」の復元・補修についての検討