2023-07-22

「多摩川三十六地蔵」とは何か

■道玄坂地蔵のことを…

調べ始めて、最初に困ったのが、表題のような、地蔵などの巡礼地を示す、いわばナンバリング・リストである。

 あまりに有名な、四国八十八か所をはじめとして、この種のナンバリングされた札所や霊場は、数多くあるようなのだが…

全国霊場紹介 | 全日本仏教会 (jbf.ne.jp)

関東圏の地藏菩薩霊場は掲載されていない

◆地蔵菩薩霊場について - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com)

↑のうち、★江戸地蔵菩薩霊場三十六ヶ所 - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com) について、

・東京市史稿にて、地蔵菩薩霊場として紹介されている36ヶ所。

・江戸砂子、続江戸砂子に掲載されているところから抄出されたもの。

とあったので、検索してみたところ…

東京市・編纂『東京市史謄本園 第二章』同市/S04・発行 pp.83-

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1915721/1/56

に、江戸砂子(正・続)掲載の、「都人が佛参シタル重ナル寺院」に触れられ、その pp.97-

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1915721/1/63

に地藏霊場がリストアップされていた。

もっとも「遊園編」の一節「都人ノ四季遊觀」の場としてのリストで、いわゆる物見遊山の地としての紹介の域を出ていない。

多摩川…、多摩…あるいは、玉川…を冠する地蔵霊場/札所は、後記【付記2】の詳細不明な「玉川六地蔵霊場」にほかは、なかなか見当たらない。

 ほかに類似性のありそうなのは

★都筑橘樹二十五地蔵霊場 - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com)

玉川八十八ヶ所霊場の案内 (tesshow.jp)

 あたりだが、地域的には、前者は神奈川県北部、後者もそれらに加えて世田谷を含む荏原郡以南で、豊澤=道玄坂地藏の所在する豊多摩郡澁谷は含まれない。

■この種の…

ニッチな調べ物については、さすがの google でも歯が立たないのはいわば常識なので、手間暇はかかるが

・学術論文系の

CiNii Research

・最近、全文検索が可能になった

国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

・そして、いわば最後の手段

Google ブックス

 でチェックしたが、発見できない。

 あとは、

江戸・東京札所辞典

江戸・東京 札所めぐり 御朱印を求めて歩く 巡礼ルートガイド | ジェイアクト |本 | 通販 | Amazon

目次は「試し読み」で確認できるが、地蔵については、江戸六地蔵のみ

◆出典・参考資料の案内 - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com)

地蔵霊場リスト中「ふる里関東路…」の明細は ふる里関東路 百八地蔵尊霊場めぐり | 山地の住人 (ameblo.jp)

下泉全暁「地蔵菩薩」春秋社/2015・刊 巻末の「全国地蔵霊場一覧」

先ほど届き、数ページ読んだだけですごい本だとはいうことはわかったが(さすが、著者は、京大工学部卒の僧侶)、地蔵霊場については、関東地方について紹介されているのは「関東百八地蔵霊場」のみ 

大法輪閣・編「全国霊場巡拝事典」同社/1997・刊

出版元で目次を見ると、関東では「江戸六地蔵」「鎌倉二十四地蔵霊場」のみ

大路 直哉「日本巡礼ガイドブック」/2001・刊

Amazonの「試し読み」で見ると、「地蔵霊場・札所」の紹介はない

といった書籍を渉猟するほかなさそうだったのだが、調べてみると上記の本は望み薄。

■そのうえ…

そもそも、この道玄坂地蔵に関する記述にも、細かくみるとヴァリエーションがある。成立順にいえば、

1  地藏背後 山野辺三行・書/刻 由緒書 S25/11

道玄坂を中心とした一帯に現存する石碑には徳川時代の物多くこの地蔵尊は寶永三年(約二百卅余年前)の作で、その頃道玄坂を起点とした多摩川卅三番地蔵第一番札所であった。

2 東京都渋谷区「新修渋谷区史〔中巻〕」同区/S41・刊 p.1455

殊に坂上にあった豊沢地藏(道玄坂地藏)は、宝氷三(一七〇六)年の古さを持つもので、多摩川三十六地藏の一そして四の日の縁日には大いににぎわい、大正四(一九一一五)年頃から七、八年頃は極盛であった。

3 樋口清之「史実江戸〔第3巻〕」芳賀書店/S42・刊 p.246

坂上にあった豊沢地蔵(道玄坂地蔵)が宝永三年の古きを持つ多摩川三十六地蔵の一で、信仰が盛でありましたので、その四ノ日の縁日は大変にぎわい、これが最近まであった道玄坂の夜店の因をなしました。

4 地藏堂前立札 説明書

この地蔵様は、約三〇〇年前に建てられた玉川街道と大山(さ?)んを結ぶ三十三番霊所一番札所のお地蔵様です

■そもそも「札所」か?

 上記のうち「札所」としているのは「1」と「4」だが、「4」が立てられたのは「三〇〇年前」とあるとおり、平成期、それも、判明しているその経緯から東電OL事件後なので、33という数も一致している(もっとも、この数は、廃寺、移転などにより時代によって変動しうるので、こだわる意味はない)ことから「1」を踏襲したものであることは疑いない。

 札所は、「原義」では、お札を「納める」場所である。

*今になって唐突に思い出したが、わらべ唄の「通りゃんせ」の歌詞も

この子の七つのお祝いに

お札を納めに参ります

なのである。

歴史と哲学の県立熊谷図書館 =資料案内= (pref.saitama.jp)

●出雲地方

札打ち

 https://tansacs.org/matsue-fudauchi/

千社札の原型だろうか 

なお、 

仁王像にこんなことしたの誰だ? 赤札だらけの北区田端「東覚寺」 - TRiP EDiTOR

お札の貼られた百地蔵②-袖ヶ浦市のパワースポット - 光と影の軌跡Ⅱ (goo.ne.jp) 

 

●四国八十八箇所

納札

https://ohenrocar.com/%E7%B4%8D%E6%9C%AD%E3%81%AE%E4%BE%A1%E6%A0%BC/

とはいっても、お札を配付する場合はもちろん、納める場合でも相応の設えは必要だが、下記の江戸時代末期の紀行文のように堂宇があるわけではない野仏なので、そのような場所とは考えにくい。

「松の紫折」 作者不詳〔ただし、元・昌平坂学問所 地誌取調所 地誌取調出役。つまり「幕府の学芸員」〕 

世田谷区立郷土資料館・編「世田谷地誌集」同区教育委員会/S61・刊 所収

「池尻村〔「上目黒村」の誤カ〕にかゝりぬる右に石を建て上北沢村〔「下北澤村」の誤〕の淡嶋明神の道を鐫(え)れり、この処には元よりの茶店三四軒あり、中に大きなる猿を継ぎ置り」p.179

↑【参照】

「余も廿年余りのあと地誌の公事にて都築郡より帰るさ同僚の小笠原氏と来たりし事もあり」p.180

とあるので、 

新篇武藏風土記稿

=1810年(文化7年)起稿、1830年(文政13年)完結

の、地誌取調出役だった人物が「廿年余りのあと」(「あと」の原義はこの場合「前」)といえる時期に当地を再訪したことになる→∴1850(嘉永3)年ころ作

 加えて、札所の初番とされていることも「眉唾もの」もので、その信ぴょう性を低下させている。と、いうのは道玄坂の坂下には宇田川地蔵が建立されていたのであるから、「1」の多摩川、「4」の「玉川街道」あるいは「大山(道)」のどれを措定するにせよ、豊澤=道玄坂地蔵が初番となる合理性はないのである。 

 さらに、道玄坂の大山道と瀧坂道の追分の場所も、朱引線内、つまり、江戸御府内なので、立地の面でも豊澤地藏と宇田川地蔵とでは差異がないのであって、朱引き外の郷村にあたる荏原郡以南を対象としていると思われる、前記の、玉川八十八ヶ所霊場 の方が、切り分けとしては筋が通っている。

■結局…

残るのは「2」「3」ということになるが、「3」の著者の樋口國學院大教授は、「2」の編集責任者なので「2」を踏襲して当然といえる(ただし、「3」で触れている毎夜開かれる「道玄坂の夜店」と、盛況だったことは確からしいが、せいせい「4の日」だけ開催の豊澤=道玄坂地藏の縁日とは直接の関連はない)

 結局、最後に残るのは「多摩川三十六地蔵」なる「リスト」の存否なのであるが、お札を納める必要も戴く必要も無いのなら、いわば観念的な「括り」に止まるので、ある程度の人々の信仰を集める場所であれば、このようなリストが成立してもおかしくはない。

 しかし、地蔵といっても、寺院内に安置されているものならば、寺院名を示せば一応は足りるだろうが、野仏については、その巡礼の助けになるような何らかの案内書きが不可欠になってくるだろうし、そのようなものがあれば、何らかの痕跡が後世に残るはずなのであるが、先に検討したとおり、それが見つからないのである。

 とはいえ、「2」は、区史という公式な書物なのであるから、何の史料も根拠もなしに、先のように記述されることもまたあり得ない。

 そうなると、当地の「口伝」。たとえば、「この地蔵は、かつて、多摩川三十六地蔵の一つだった」といった、実際の根拠は薄い伝承がこの界隈の古老にあって、それに依拠したと推定するほかなさそうである。

 その裏付けとして、もう一つ重要な問題点がある。

 「多摩…」であろうが「多摩川…」であろうが、さらに「玉川…」であろうが、その地蔵群の一番札所/霊場が豊澤地蔵であるならば、二番以降の札所/霊場は、間違いなくそこから南の多摩川方向、つまり、荏原郡に「無ければばらない」。

国立公文書館・蔵「目黒筋御場絵図」〔部分〕より










 しかも、西に隣接する荏原郡内の上目黒村内に仮に数か所あったとしても、そこから西の多摩川方面は、池尻村、池澤村、三宿村、代田村、下北澤村などを始めとする現世田谷区内にあったはずなのだが、その地に、この種の札所/霊場群についての「伝承が全く残っていないことは、まず、あり得ない」からである。

【付記1】

「玉川」を冠する地蔵霊場として「玉川六地蔵」なるものが伝承されていることがわかった。

★玉川六地蔵霊場 - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com)

残念ながら、伝承が残るのは、かつては三軒茶屋にあった地蔵1尊だけで、しかも全体が30超えとはされてはないのだが

グラフ世田谷 vol.31 S61冬号 の 「世田谷ノート7 石地藏の話」に若干の解説があった。

 (地蔵が)子どもと緑が深い仏だということで子育て地蔵とか子安地蔵と呼ぶお地蔵さんが出てきます。子どもを抱いた姿につくられたりもしました。世田谷で子どもとのかかわりを名称に残すのは…夜泣き地蔵〔註:世田谷区船橋4-39-32 宝性寺門前〕と円泉寺(太子堂3-30-8)の子育て地蔵です。

 円泉寺の子育て地蔵にはそれなりの由来があったのかもしれませんが、今では不明です。このお地蔵さんは昭和四十三年まで三軒茶屋駅近くの、玉川通り東側の辻(太子堂1-12-23)にあり、道路工事で円泉寺に移されました。引越し以前は毎月四の日と八の日に地蔵縁日がにぎやかにたったものです。

 …六地蔵には京六地蔵や江戸六地蔵(東都六地蔵)のように、都市の入口にあたる要所六か所に一体ずつまつり、これを巡拝する形のものがあります。この、札所めぐりふうの六地蔵詣でに似たものが、かつての世田谷にもあったようです。といいますのは、円泉寺の子育て地蔵には「玉川六地蔵の四番目」という話が残っているからです。しかし残念ながら玉川六地蔵なるものの実体は目下のところわからずじまいです。(p.28)

 このような伝承が残るのは、現在は、太子堂の円泉寺にある1791(寛政3)年造の子育て地蔵で、これが4番札所の地藏ということだけは伝えられているのだが(他の札所は不明)、その地蔵の元々の所在地が、三軒茶屋近くの、豊澤地藏と同じように大山道沿いだった(ただし、こちらは「追分」ではないし(現在の三軒茶屋の追分よりもかなり東にあるし、そもそも、ここが追分になったのは、そこから用賀方面を結ぶ新道ができた文化・文政期〔1804-1830以降なの、寛政3〔1,741〕年建立と伝えられる地蔵は無関係)、迅速測図(M30修測図)などを見ると、明治期にできた駒澤練兵場の外周道路の大山道への取付部のようなのでさらに新しく、「賽」あるいは「辻」といえる古道との接続部はここよりやや西にあるので、明治期より前は、また別の場所にあったのだろうか)。

M13測M30修測 迅速測図 内藤新宿〔抜粋・註釈補入〕











 また、1/3000帝都地形図「太子堂」日本地形社/S22 の、該当の場所に、同シリーズの「北澤」図の「地藏」「庚申」との注記のある場所と同じ記号が振られている。









 それでも、前記4のリストが実在するなら、その札所の一つとしての有力候補ではあるのだが…

 こと世田谷区内に関する限り、地蔵に限らず石仏は寺院なり他の石仏の脇に集約されてしまっているものが多く、元々の所在地が特定できるだけでも奇蹟に近いことなので、これだけでも大きな収穫なのである。

 


【参考】世田谷地蔵マップ (takuichi.net)

 なお、大月桂月「東京遊行記」大倉書店/M39・刊 の「八十八ヶ所詣」


 ■昨日…

佐久間阿佐緒「東京の石佛」鹿島出版会/S48

が届いた。

 著者は画家なので、構図などの整った美しい写真が多く、楽しめるのはよいのだが、「器量よしの観音像」の写真が圧倒的に多くを占めていて、残念ながら地蔵像のそれの数は少ないし、地蔵像に限らず石質も道玄坂地藏のようなものは見当たらない。

 ただ、

「多摩川については、以前から、登戸、府中のあたり、大田区、世田谷区の川沿いなどを、スポット調査のようなことをしていたが、将来、できれば、この点を、一本の線につなげてみたいと思っている。これには、まだまだ、多くの時間と暇が必要だろう。」(p.126)

た、

 多摩川の「川筋に、より多くの、江戸府内出来の石仏墓標があるはずだ」との仮説を立て

「この、三、四年来、わたくしは、多摩川の両岸を、行きゆ、戻りつしながら、裏付け調査を続けている。」(p.128) 

ともされている。

 同じ著者が5年後に著した「江戸石仏散歩」東京新聞出版局/S53 を発注済なので、そちらに期待したいところである。

追記:

 前記「江戸石仏散歩」が届いた。

 同書は、東京新聞への連載記事をまとめたもののようであるが、こちらは「東京の…」と違い、原則として所在地が記載されているのが有難いのだが、世田谷区のそれは豪徳寺、九品仏といったいわば名刹の境内地の墓石仏と目されるものが主だった。



【付記】

一般的には

三十三か所→観音霊場

三十六か所→不動明王霊場

という例が多いのに対し、地蔵霊場は

6、24、48、それに108、まれに28か所という傾向がある模様だが

◆地蔵菩薩霊場について - 日本各地の巡礼・巡拝霊場の紹介 (jimdofree.com

36は、岡崎市、伝承としてなら米子市

38は、三浦市

にある。


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