2023-06-29

渋谷花街の「道券」

 ■当ブログの…

豊澤地蔵→道玄坂地蔵
https://nakashibuya.blogspot.com/2023/06/blog-post_3.html

で触れた

 松川二郎「三都花街めぐり」誠文堂/S07・刊
 のpp.110 以下の「渋谷」

 の中で、二派あった円山町の花街について、以下のように解説されている。

 元はひとつの花街で常時四百乃至四百五十名の藝妓を擁し、新市街随一の大花柳を以て跨りとしてゐたが、昭和六年五月其の一部が分離して「道玄坂三業」を組織し、今日は「澁券」(又は舊券)「道券」(又新券)の二派にわかれてゐる。
              :
            道券
 芸妓屋 二〇軒。藝妓 五十五、六名。 料亭 九軒。待合 八軒。
 これに属する主なる料亭は銀月、三樂、侍合では菊水、樂々などで、藝妓の方でよく賣れるのが吉の家の新之助、平の家の小萬、豊年家の淸香、田中家の小稲。喜久本のおかる等であるが、若手で御安直なのが多く、此花街を背負って立つといふやうな姐さん株は居ない。(以上pp.112-114)

■この…

道券こと道玄坂三業については、偶然、官報に会社設立公告があるのを見つけた。

昭和8年7月20日付け官報 1965号 p.544
https://dl.ndl.go.jp/pid/2958437/1/13

















■同社の…

  • 本店所在地は、「渋谷區上通四丁目九番地」で、渋谷劇場、三長料理店そして旧豊澤地蔵が道玄坂地蔵と名を変えて遷座してきた場所と同一敷地で、おそらく髙橋家の所有地*
  • しかも、取締役かつ代表取締役中の1名が髙橋三枝氏であり

髙橋家が深くかかわっていた会社であることがわかる。

*同地の当時の所有名義については資料を未入手だが、三枝氏の住所地は「渋谷區南平臺二十九番地」と上通四丁目9番地の南側隣地である。上通四丁目9番地が髙橋家の所有地でなく借地なら、地蔵の遷座先として、不安定なそのような場所でなく、髙橋家の所有地(こちらは資料で確認できる)である南平台29番地を選んだはずであるから、上通四丁目9番地も髙橋家所有地と考えて、まず、間違いない。 

■もっとも…

同社のもう一人の代表取締役である伊富貴音吉なる人物は、

 「料理待合芸妓屋三業名鑑 : 附・貸座敷、公周旋 大正12年度」日本実業社/T11・刊

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/913685/1/93

によれば、大正11年当時渋谷待合業組合の幹事であり、どうやら、この人物が、松川二郎のいう渋谷三業界の「分離」のキーパースンと思われ、それに、会社の本店事務所、いわば道券の総見番の提供などの形で三枝氏が協力したのだと思われる。

■前掲・松川によれば…

従来からの澁券に較べ、道券は、芸妓の玉代が「至極安直」(p.114)とされており、気軽に楽しめる花街をを目指したらしい。

 あるいは、新興の店が多かったらしい道玄坂道の南側が中心の団体なのかとも思えたのだが、前掲・名鑑によれば伊富の経営する待合菊水は、旧中澁谷645(現在の料亭三長のやや北)と円山町内にあるし、前掲・松川に挙げられている店で名鑑で確認できるものは道の南北に分散している。

 もっとも、松川・前掲に挙げられている店には、前掲・名鑑に名前のないものが多いことからみて、比較的新興の待合、芸妓屋が多かったのではないかと思われる。

■この…

道券の設立と、道玄坂地藏の遷座後の縁日とは時期的にも関連がありそうで、芸妓がお座敷の行き帰りにでも顔を出せば、場が華やいで集客にもなるので出店する露店商はその分潤うし、芸妓も顔と名前を売るよい機会になったのではなかろうか。

 道玄坂については、林芙美子が「猿股」を商っていたという坂下の毎夜の夜店が有名だが、坂上の縁日は、性質上月1回、多くても「4の日」の3回だったのだろうが、その日には坂下にある程度は対抗できたのではないだろうか(そうでなければ出店者の確保もままならない)

【追記】

 時期的には一致しているが、内容的には必ずしも上記「道券」とは整合していないように思われるのだが、

東京都渋谷区「渋谷区史〔中巻〕」同区/S41・刊 p.1454 

に以下の記述がある。

昭和三(一九二八)年三月には南平台の一部四千坪に二業地が指定せられて、昭和六年五月新見番を作り、終戦前までの繁栄を見た。

【余談】

加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」

中「第五四話 渋谷花柳界発祥のころ」〔pp.306-308〕

に、渋谷花街の黎明期のエピソードが紹介されている。

  • 明治20(1887)年ころ、遊芸師匠 の鑑札をも って、流し義太夫をや っていた人が、弘法湯の前に 「宝家」 の看板をあげた
  • その後、宝屋と林家に加え青山7丁目の寄席二山亭の裏の東家 (あづまや)とが三軒で組合をつくり組合金を出さなければ芸妓営業は始められないという掟を定めた
  • しかし「千代本」がこの掟を無視し、新橋から客に不都合 のあった「赤筋」と呼ばれた、いわば二線級の芸妓によって、道玄坂上交番の今の円山町の入口に看板をあげて営業を開始した
  • 既存の3件は芸妓が5人しかいないのに「千代本」には16人も いたので「喧嘩にならず」明治23-4年に、既存・新興の争 いも終った
  • 当時は宮益の魚惣が主な芸妓の「お座敷」だったが
  • 神泉谷の弘法湯脇に新川座という料理旅館が
  • その近くに近江屋が
  • 出来て、徐々に花柳街化した
  • 日清戦争後の明治29(1895)年頃から道玄坂南の富士横丁に「松風」次いで「文の家」が開店して拓け始めた
  •  それから 富士横丁から道玄坂上を横切って神泉谷までの両側に帯のような花柳地が開け 
  • 五六十軒の芸妓屋、料理屋が出来た
  • その後、荒木山と呼ばれていた円山町方面に一軒二軒と芸妓家が殖えていった。
  • 日露戦争(1903-4)後、世田谷付近に軍隊が設置され、御用商人が来るという工合で、花柳界にも これが影響して、荒木山も富士横丁も益々繁昌した
  • 明治44年から大正元年にかけて円山町が待合の許可地となると、待合、芸妓屋、料理屋も殖えた
  • それに先立つ、明治31年に芸妓屋組合、同36年に料理屋組合も出来ていたが、大正8年2月には料理屋、待合、芸妓屋の三者一体の渋谷三業株式会社が創立され
  • 大正11年には、料理屋29軒、待合が97軒、芸妓屋が146軒。芸妓数は大小合せて約260人となる大発展を遂げた

【追記】

去る、令和5年7月8日、高橋家関係者の方々から、それぞれ、他の話題に転じてしまったので、時期・場所などが不明なままに終わってしまったのが残念だが
・高橋家は、三楽という名前の料亭を経営していたらしいこと

・三枝氏が、芸妓置屋を経営していたらしいこと
をうかがった。

 このうち
  • 料亭三楽については、前掲・松川でも、「道券」に参加している料亭として名前が挙がっている
  • 芸妓置屋については、時期、屋号、場所については全く不明なのだが 
高橋三枝営業所 澁谷46-1073 澁・圓山

 との記載があり、あるいは、これが、三枝氏経営の芸妓置屋なのかもしれない。

 なお、こちらは料亭ではなさそうだが
 
日本商工通信社 編「職業別電話名簿 第18版」同社/S03・刊 p.352

青山36 一四九七 鳥新 高橋三枝 豊多摩、南平臺二四

 との記載もある。


2023-06-24

道玄坂(と宮益坂)の拡幅経過

 ■100年に…

一度といわれる渋谷の再開発。

 たまたま、現在の道玄坂地蔵尊の流転、とくに最初の遷座の時期と理由を調べる裡、いわば渋谷のメインストリートである道玄坂や宮益坂の拡張経過が徐々に分かってきた。

 「忘却のかなた」にしてしまうのは勿体ないので、ここに、順次追記を加えながら、ノートとしてまとめて行くことにした。

■江戸時代より前

といっても、その初期についてはまだよくわからない。ただ、西方から武蔵の国に行くのに、箱根外輪山の北側を巻いて東方に向かう道はいわば必須だったはずなので、富士山の噴火などの影響でルートはその都度変更されたのだろうが、後記の「大山道」の原型となるルートが古代からあった(足柄道、足柄路)ことは間違いないだろう。

 一方、ここで分岐する瀧坂道も、江戸時代初期に開鑿されたといわれる甲州道中よりも起源が旧いといわれており、その道が、現在の調布市瀧坂で甲州道中に合流しているのだから、律令期から府中の国府に通じる道として存在していた可能性も高い。

■江戸時代

 今の、国道246号の原型のルートは、「大山道」「矢倉澤-道(往還)」あるいは「相模-道(街道)」「厚木道」などと呼ばれ、そのうち、江戸の中心部から渋谷川を渡るあたりまでは「青山道」と呼ばれていたようである。

 とくに江戸後期のこの道を描いている地図は数多いが、「大山道」全般についてはネット上に詳しい記事が数多くあるし、ここのテーマは、渋谷とくに道玄坂近辺の歴史なので、それに必要な範囲のものだけ掲げることにする。

大山街道絵図

大山街道絵図〔部分〕江戸時代 藤沢市藤澤浮世絵館所蔵
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館「特別展 渋谷駅の形成と大山街道」図録 p.7











 この絵地図の中央やや左の青縦線が渋谷川。その左2本目の赤引出し線の場所が大山道と「北池沢村道」とある瀧坂道の追分で道玄坂上だが、このあたりの「道巾」は「貳間半」〔約4.5m〕。その左の青縦線は三田用水。その左の「下リ坂」は大坂で、「道巾」は「貳間一尺」〔約3.9m〕とされている。

「新編 武蔵風土記稿」

「新編武蔵風土記稿 巻之6 山川,巻之7 山川,巻之8 芸文,巻之9 豊島郡之1,巻之10 豊島郡之2」内務省地理局/M17
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/763976/1/82

「中澁谷村」の条の冒頭近くに「村ノ東南ニ相州矢倉澤道アリ巾二間」〔約3.6m〕とある。

●「御府内備考」

「宮益町」の条に「坂巾三間五尺五寸」〔約7.2m〕

蘆田伊人・編「大日本地誌大系 第3巻 御府内備考. 第1至4」雄山閣/S06・刊
「巻之七十四」「渋谷之二」p.334
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1214872/1/177

「道玄坂町」の条に「坂」「三間程」〔約5.4m〕

前・同 p.336

とされている

■明治33年ころの拡幅

前掲・白根特別展図録 p.12によれば

 明治 22 年(1889)以降、同年の近衛砲兵連隊にはじまり、大山街道西方の目黒村、世田谷村への軍事施設の都心部から移転の中で
(明治)「 33 年に道玄坂では坂道の拡幅工事が行われ」た、
とされている。

 出典を探したところ、
加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊「第三八話 御水講と道玄坂(吉田国太郎資料)」(pp.208-268) に、
明治三十三年道玄坂の一次の道路改修がすむと道幅は見違えるほど広く、坂もゆるやかになり、近在の農家から野菜類を市内の市場へ運搬する車も繁く、名物 の立ちん坊が道玄坂下や宮益坂下に集り荷車の後押しをして一銭二銭の労賃を貰っていた。(p.221)

とあった。 

■明治期(時期・一次資料不詳)

拡幅ではなく、勾配調整の可能性が高いが

道玄坂と円山町 - 加瀬竜哉.com : no river, no life

では、「明治時代に池尻の砲兵隊が道玄坂で横転事故を起こし、多くの犠牲を出した。これにより陸軍は道玄坂を約5m削り、現在の高さになったのだという。」としている。

■明治40年ころの拡幅

明治40年ころ、大山道の道玄坂上以西に玉川電気鉄道が敷設されたが、その時、以下のように、この区間の大山道は

幅員8間〔15.2m〕

に拡幅されている。

治39(1906)年03月01日
渋谷~ 道玄坂間軌道敷設工事施行認可 申請
同       年04月17日
警祝総監 ・東京府知事宛て、「営業物件義務履行ノ担保提供許可ノ件」との請願書 を提出
三軒茶屋~ 玉川間の 『軌道敷設工事 ヲ 竣エ シ … 』、三軒茶屋~ 道玄坂上間に お い て は 『道路ハ東京府庁ニ於テハ六間幅ニ拡張ノ御予定… 其後東京府ノ御都合ニ依リ予定ノ六間幅ヲ八間幅ニ御変更… 』、『…明治三十八年一月二十五日及同年五月十一日付ヲ以テ東京府 ノ拡築費中へ多額ノ寄付拡築工事ノ全部ヲ当会社ニ於テ引受タルコトノ上申ヲ為シタ リ … 』
明治40(1907)年03月06日
道玄坂上~三軒茶屋間開通
(以上、世田谷区立郷土資料館「特別展『玉電』-玉川電気鉄道と世田谷のあゆみ-〔図録〕」p.43。)

なお、

東京急⾏電鉄 『東京横浜電鉄沿⾰史』同電鉄/S18・刊
「 明治四⼗年頃⽟電⼯事中の道⽞坂上」
 正面手前は敷石敷設中の軌道、左端奥は工事用のトロッコの軌道と思われる。


■大正期の拡幅

 大正期にも何らかの拡幅ないし勾配調整が行われた模様だが、以下のとおり情報が錯綜している。

●大正7年説

藤田佳世「渋谷道玄坂」彌生書房/1977・刊 p.14 に

「大正七年第一次地区改正で巾を広げ」

とある。

●大正11年説

前掲・白根特別展図録 p.12によれば

「大正 11 年(1922)に再び道玄坂の改修が行われる。」

とされている。

「今や道玄坂改修工事行はれ」
とあり、これが典拠かもしれない

●大正13年以降説

前掲・藤田 p.14 では、前記の大正7年の拡幅に加え

「関東大震災直後に半ばから上を削り取って勾配をゆるめた」

としている。

東京名所図会(M44)
手前右手が明治30年に開鑿された農大通り(現・文化村通り)
道玄坂の「御水横丁」入口あたりに大きな段差らしきものが見える























 上の写真を見ると、ここ道玄坂下も道路幅は意外に広く、少なくとも江戸時代の3間のままではないので、道玄坂上以東も前記明治33年等に拡幅されていることは間違いない。
 
なお、
■大正9年の玉電改軌にともなう拡幅の可能性はないか

これも、明治40年ころのそれと同様に、道玄坂上以西の部分に限る…

前掲・世田谷特別展『玉電』図録 p.44 に

大正09(1920)年08月21日
軌道拡幅工事(1067㎜から1372㎜へ)のため、全線単線運転。
同       年09月03日
軌道拡幅工事完成。東京市電と直通運転可能となる。 1067㎜軌間の車両を全車処分し、新たに木造2軸電動客車15両、木造ボギー電動客車15両2軸電動貨車5両を造る。

とある。

  軌道拡幅(改軌)前の車両の全幅は、同図録pp.47-51の合葉博治氏の推定では1829㎜(ステップを除く)

 これに対し改軌後の車両の全幅は1927年新造のデハ30形で2282㎜。併用軌道を走った最後の形式である1984年新造のデハ150形で2308㎜。

(以上、宮田道一/関田克孝「ありし日の玉電」ネコパブリッシング/2000年・刊 pp.16,19)

 つまり、改軌当初の段階でも、車両の幅が453㎜程(つまり、1.5フィートあるいは1.5尺)広がるのを前提としていたはずで、軌間(各線路の内側の幅)を広げるだけでなく、上下線の線路の間隔も広げる必要があるので、道路中央を占める併用軌道の幅が広がることによって、車馬のための道路幅が狭まることになる。

 上記の工期では無理にしても、前記大正11年の改修なるものは、あるいは、この玉電の改軌に対応したものかもしれない。

■昭和6~8年の都市計画道路としての改修

 道玄坂道が、ほぼ現在の姿となった、現時点では最後の大改修であり、

東京府土木部「東京都市計画環状道路改修工事報告書」同府/S08

に工事記録や写真が掲載されている。

 この道路は、大正10年5月13日に認可・公告されていた

東京都市計画街路のうち

一等大路第三類第七
幅員十二間(中央車道九間 左右歩道各一間半)
目黒村大字上目黒字柳町四百六十七番地地先ヨリ中澁谷字豊澤六百十八番地ヲ經テ字大和田下二百四十三番地地先二至ルノ路線

がこれに該る。

 前掲・報告書によれば
  • (目黒方面から)右折して厚木街道となる。本道路は神奈川縣厚木町方面に通ずる主要道路で、舊澁谷町道玄坂上に至る間は幅員八間にして、玉川電車軌道が敷設され*、道玄坂を勾配十八分の一で下り宇田川に至る(p.152)
  • 所謂道玄坂は幅十米乃至十六米の道路で、其の勾配は坂下より百軒店入口迄は約二十二分の一、それより坂上迄は約十七分の一の急勾配**にて車馬の通行激甚にして交通事故の多い箇所であった。(p.141)
  • 昭和6年8月8日道玄坂より終點に至る區間の歩道幅員を澁谷驛附近の歩行者激増趨勢に鑑みて一間半の計劃を二間に変更し(p.9)
  • 昭和6年6月20日…工事に着手したけれど、工事は延期を重ねて漸く昭和8年…9月20日全部の完成を告ぐるに至った(p.141)
  • 改修路線の勾配は、街路構造令の規定に依る三十分の一を採るには餘に附近の取合に不都合を生じ其の影響する處甚大なるを慮り、二十二分の一を採用したが、尚坂路の頂上部に於て二米餘の切取を余儀なくされ本線路との支道取合勾配は漸く十分の一にて取付くることを得た(pp.141-142)
由。

*この区間は、前記の明治40年の拡幅以降、手が入っていない可能性が高いことを示す。
**この急勾配が、長く乗合自動車(バス)が道玄坂に入れなかった理由のようである。
 大正14年12月22日設立の「日東乗合自動車株式会社」が、翌年3月世田谷町役場と渋谷方面とを結ぶ路線を開設したが、渋谷側の始終点は、下の写真のように道玄坂上の中豊澤停留場に止まっていた。

なお、
ほぼ同時期に喜多見から渋谷方面への路線を開設した、北林自動車も、渋谷側の始終点は「道玄坂上」だった。

これに対し、大正9年設立の代々木乗合自動車の、(幡ヶ谷ー)三角橋と渋谷方面を結ぶ路線は、駒場道(現・玉川上水縁-補助54号線ー山手通りー旧山手通り)から農大通り(現・文化村通り)を経る路線で、当初から渋谷駅前を始終点としていた。


日東乗合自動車豊澤停留場
故・月村信勝氏ご提供

S03 大日本職業別明細図「渋谷町」
日東乗合自動車豊澤停留所


 この路線は、その後、昭和期に入って玉川乗合自動車に譲渡され、日東乗合自動車株会社は、昭和5年3月1日解散したが、渋谷寄りの始終点には永く変化がなかった。

 やはり、道玄坂で乗合自動車を運行させるためには、この工事を待つほかなかったようで、報告書の 

      第六節 交通車輛の利用状態
 起工以東年々部分的に竣功する環状道路上に、直に乗合自動車の運行を見ることは、本道路の効果を語るに十分である。沿道に發達せる商店街及び住宅地を通過し、省線社線の停車場又は停留場を發着地とし、或は郊外名勝地や工業地帶を連絡する乗合自動車は、放射的に向ふものさへ可及的環状道路の一部を使用し、現在では殆んど其の全線に互り運行せられ其の利用價値を益々増大するの勢である。              
 而して環状道路の使用に依る自動車運輸車業の成績極めて良好にして、本道路に近接伴行する鐵道軌道の經営に相當の影響を及ほすものある爲、近時は鐵道軌道に對する防衛又は培養線として各鐡道軌道會社も競うて自動車運輸事業を企圖するもの尠くない。現在環状道路に依る乗合自動車の運行は次の如き狀状態である。
 …一・三・七號線にては玉川乗合

とあるのだが(pp.172-173)、残念ながら、 「一・三・七號線」については、その道玄坂上から西については、もともと日東乗合の路線だったので、決定的なデータではない。

 もう少し、緻密に、昭和5年ころから9年ころまでの情報を探るしかないようである。

【追記】昭和7年

国会図書館デジタルアーカイブ中

東京市電気局・編「大東京区域内ニ於ケル交通機関ノ現勢 昭和7年7月末現在」同局/S07・刊 13丁目


では、書名に従えば、昭和7年7月時点で

東横乗合 路線#3:澁谷驛前-航空研究所-東北澤

は、元代々木乗合の路線なので、農大通り(現・文化村通り)経由だろうが

玉川乗合 路線#1:宮益坂下-淡島前-山崎
同    路線#2:宮益坂下―道玄坂上―淡島前
14丁
同    路線#3:宮益坂下―獣医校前―經堂

の3路線は、淡島通りを通り「道玄坂上」経由なので、元日東乗合の路線と考られ、
昭和7年7月からは、始終点が、中豊澤(=道玄坂上)から道玄坂を下った渋谷駅前まで延長されたと考えられる。
なお、同丁記載の大山道経由の西方からの路線も宮益坂下を終点としている。

S08 大日本職業別明細図「渋谷町」
渋谷駅周辺バスターミナル
黄色:東横乗合〔旧・代々木乗合〕
赤色:玉川乗合〔旧・日東乗合ほか〕
橙色:東京市営バス

 したがって、この時点までに先のとおり「環状道路の一部」の道玄坂道で「可及的に」運行を開始したのだろう。

 残るのは、昭和6年以前の状態である。

【余談】

■宮益坂の拡幅

 大山道沿いの駒沢地区に軍事施設が設けられるようになると、軍にとっては、道玄坂と同様に宮益坂も、その移動経路としての重要性に違いはない。

 とくに、一朝事あるときに、宮城警護に駆け付けなければならない近衛師団、とくに、重量物を移動する、輜重や砲兵についてはとりわけ切実な問題だったと想像される。

 近衛師団は、いわばその先駆けとして、1892(明治25)年に近衛輜重兵大隊が現・目黒区・駒場に、次いで、1898(明治31)年近衛野砲兵連隊、翌1899(明治32)年に野戦重砲兵第八連隊が現・世田谷区池尻に、さらに加えてそのナンバリングから見て首都圏の守備を想定していたと思われる、第一師団の野戦重砲兵第三旅団 野砲兵第一連隊も1898(明治31)年に池尻に設けられている。


M42測T05修測1/10000地形図_世田谷+三田〔駒澤輜重・砲兵抜粋〕


 折しも、近衛輜重兵大隊の設営に合わせるように、東京府の明治 24(1891)年12月3日の東京市区改正委員会で、宮益坂について「南豊島郡渋谷村元宮益町通道路取拡ノ件」として、以下の議案が可決されている


赤坂區青山南町通リハ市區改正設計中第二等進路ニ該當ノ箇所ニ有之全線ノ起工年度未定ニ候得共南町七丁目眼ヨリ南豊島郡澁谷村宮益橋ニ至ル道路ハ最モ峻坂ニシテ車馬往復ノ不便不少而巳ナラス同町以南目黒村近傍二ハ陸軍兵營散在シ行軍等ノ爲メ道路雑沓ヲ極メ行路危険ノ塲合モ有之候ニ付改正方取調候處右設針通リ全幅ヲ改正セントスルトキハ多額ノ費用ヲ要シ候ニ付別紙圖面ノ通リ先以テ六間道ニ改正候ハヽ通路ノ便宜ヲ得且經費モ不相嵩儀ニ付施行方取計可申ト存侯右御意見承度此段及御照會侯也
尚以本文改正經費ハ概算金壹萬千七百貳拾參圓參拾参錢ニ有之尤モ其半額ハ陸軍省へ支辨方請求ノ積リニ有之侯間此段申添候也

  【別紙圖面】


 もっとも、この拡幅は、明治39年に陸軍省から内務省に督促の末、漸く明治43年に実現したようである。

軍第三五号 三十九年弐第九六五号 工兵課 青山北町七丁目、渋谷橋間道路拡張ノ件 次官ヨリ内務次官ヘ照会案 赤坂区青山北町以西大山街道ノ義同町七丁目迄及渋谷橋以西ニ於ケル道路ハ既ニ拡張ノ事ニ相成居候得共其中間ナル七丁目ヨリ橋間ハ在来道路ノ侭ニシテ幅員@陸軍隊ノ@通之不便不尠候間該部分ヲモ為シ得ル丈ケ速ニ拡張セラルル御詮議相成度 送甲第五九四号 (本件ハ内務省ニ向ケテ該地方人民ヨリ出願ノ次第モ有之陸軍ニ於テモ必要ノ旨申込ベシ候ハ詮議ノ途アル故交渉ナリタキ旨同省大各地赴任官ヨリ内報アリタルニ由ル) 参照 七丁目迄ハ市区改正並市街鉄道ニテ拡張部分ニ属ス 橋以西ハ既ニ拡張シアリ* ※地図※


 

* 前記「明治33年ころの拡張」によるものだろうか

 



2023-06-12

豊澤高等演藝館

 ■たまたま…

三田用水 や 海外植民學校 の史料として持っていた

加藤一郎・編著「郷土渋谷の百年百話」渋谷郷土研究会/S42・刊

をめくっていたら、その  pp.332-337 の

第五九話 寄席から活動写真になる時代

の冒頭に

豊沢高等演芸館 一三〇坪 収容人員三七〇人* 中渋谷 一九五番地 (高橋長吉)

道玄坂上の西側に、後に渋谷劇場として立派な演芸館であ った。経営者の高橋長吉 の後、妻女の 「みえ」が三長のおばさんで名声を売 った。現在も円山町に料亭 「三長」を経営している。

*【参考】下北沢の本多劇場は1フロアで386席 

と書かれていた。

 「後に渋谷劇場」「料亭『三長』を経営」とされているのだから、所在地には誤記があるものの、これは 古き美しき木造屋敷は100年後まで「料亭三長」 の末尾に写真のある、明治45年8月15日撮影の「豊澤亭」であることにまず間違いない。

 しかし、上記の「明治四拾五年八月拾五日」付の写真に写り込んでいる幟には、はっきりと「豊澤亭さん」と染め抜かれているのに対し、前掲・加藤に掲載されている下記の写真の幟には「豊澤高等演藝館」と染め抜かれている。




■国会図書館の

デジタルライブラリの全文検索機能で「豊澤高等演芸館」を検索してみると

東京府豊多摩郡役所「東京府豊多摩郡誌」同郡役所/T05・刊のp.164

には、この「觀客定員 三七〇人 所在地 中渋谷五百九十五番地」の「寄席」の「席名」が「豊澤高等演芸館」とされている。

また、樋口清之・編「新修渋谷区史」同区/S42・刊 p.1455

では、

大正元年 1912年 9月

道玄坂上の豊沢高等演芸館が開館する

とされているようである。

さらに、

黒瀬春吉・編「芸人名簿」文芸協会/T04・刊 末尾の

「附 劇塲觀物塲及寄席案内」中「觀物塲の部」では

「豊澤館 中澁谷道玄坂上」とされている。

と、混乱している。

 どうやら、

 明治45年=大正元年当時の「豊澤亭」は、

 大正4年までの間に「豊澤舘」に、

 さらに大正5年には「豊澤高等演芸館」に

名称が変わったことになりそうだが、「豊澤亭」から何も変わらないのに名前だけ「高等」を名乗ってもただの「嗤い種」になるのは必定なのだが、先の「亭」時代と「館」時代の写真を較べても「外観」に変化があるとは思えないので、この間に何らかの意味で「中身」が変わったと考えるほかない。

■調べてみると…

以下のように

  • 「高等」演芸塲〔館〕というのは、いわば準固有名詞であること
  • したがって、何らかの「定義」があるわけではなく
  • わが国初の〔西欧式〕劇場であることがいわば定説である「帝国劇場」まで、江戸時代の寄席・芝居小屋から変遷するまでの中間的な段階の興行場の形態らしいこと

まではわかってきたのだが、それでは

  • 寄席・芝居小屋とどこが異なるために「高等」なのか
  • 逆に、何が足りない、あるいは、何が余分なために、現在「劇場」と評価されていないのか

は、先のとおり「定義」がないだけに結構難しい。

■わが国の

興行場の様式を、最初に大きく変化させたのは、意外ともいえるが

明治22(1889)年開場の

歌舞伎座(初代:~大正10〔1921〕年)

といってよさそうである。

河竹繁俊 「歌舞伎史の研究 : 近世歌舞伎の性格を中心として」東京堂/1943・刊 p.144

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1871751/1/113

 同座は、歌舞伎自体の近代化論(演劇改良運動)に対応するため、その理想を実現する場とするために建造された

歌舞伎座の歴史

https://www.shochiku.co.jp/play/theater/kabukiza/history/

といわれる、外観西欧風、内装純和風の建物だった。

 ただし、明治38年まで、電気設備はなかった由。

■その後…

明治40年代に入って、「高等演芸…」を名乗る興行場が相次いで開場することになる。

その嚆矢が

●明治40(1907)年開場の
牛込高等演芸館
である。

 明治38-39年にアメリカに留学していた佐藤康之助が帰国後、妻である竹本小住が席亭をしていた、漱石も贔屓にしていたという寄席「和良店亭」の場所に建築した洋風2階建てで、食堂を併設している点では西欧の劇場を踏襲しているものの、本格的な舞台とはいっても、間口4間、奥行3間と小ぶりで、規模の面では旧来の寄席から大差はないようである。













東京俳優学校と牛込高等演芸館

 

【参考】

永井聡子・清水裕之「明治末期より昭和期に至る劇場空間の近代化に関する研究 : 前舞台領域の空間的変遷」日本建築学会計画系論文集No.513pp.135-142/1998.11

https://cir.nii.ac.jp/crid/1390282679757924992

牛込に次いで、規模の面で定員900名とやや小ぶりながら西欧の劇場と較べても大きな遜色のない「高等演芸館」といえるものが

●明治41(1908)年開場の
有楽座



である。

 その経営母体は、文字通り「株式会社高等演芸場」で、かの、柳沢保恵伯爵らが設立し、渋沢栄一も設立に関与し取締役に就任していた会社である。

澁澤榮一伝記資料 27巻

 この、有楽座は、華族らの要望によってその娯楽場として作られたといわれているが、確かに、この時期になると、すでに華族の当主がたとえば大使館付の武官として赴任したり、「若君」の多くも、西欧を視察、さらには留学(柳沢伯爵も宮内省留学生としてドイツに留学していた)していただろうから、西欧風の劇場での西欧風の演劇を望む声が高まっても不思議はない。
 現に、「満韓漫遊鍋島候帰朝歓迎」会などといった催しにも利用されたらしい
吉田奈良丸・述/丸山平次郎・記「浪花武士義士伝」奈良丸会/M44・刊 p.88

 開館当初の状況については
 
伊原青々園「団菊以後 続」相模書房/S12 pp.168-

   https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1221352/1/102 

 この有楽座については


に以下のような比較的詳細な紹介記事(といっても「一人称」表現もあるところから有楽座自身が出稿したものだろう)がある。

以下は判読の便宜のために、引用者が補入 

○有樂座 [〔割註〕麹町區有樂町二丁目三番地]

株式組織よりなれる高等演藝場にて日本に於ける唯一の洋式劇塲たると同時に叉其の嚆矢です、今之れを詳細に説明しますれば 

(一)同座は横川工學士が欧洲各國の劇塲を参酌しルネイサンス式に則し建築した三層樓の廣大なる建物にて外觀の壯麗、内部の完美。他に比類なく今は東京名勝の一と數へらるゝに到りました、 

(二)觀客席の設備は飽迄も洋式の特色を發揮し、廣間及ぴ東西䙁敷二階及び東西䙁敷、及び三階の三種に分れ廣間の東西䙁敷、二階の東䙁敷を除く外は悉く椅子席にて大凡千人を容るゝを得 

(三)洋式の舞臺はアーチ形の額縁の中に収り舞臺天井の高さは我が舊來の劇塲に約三倍せるを以て如何なる大道具も背景も張も其の儘自由に引上げ引下すことを得ますれば場面を轉換せしむる時は其敏速なる到底廻舞臺の比でありません 

(四)随一の劇塲電氣、は同座が最も完全を誇る所の一にて天井より階上階下及廊下の隅々に至るまで數百個の電燈燦爛として白日を欺き舞臺は脚光、側光の外に、四列の天井電氣を配置しあれぼ光線は上下左右より來り、三階の遠きに在るも俳優の表情は微妙なる筋肉の働きまで明らかに見ることが出来ます、而して之等の光線は欧州最新式の抵抗器十臺を利用し種々の色電気を以て月夜薄暮暁色夕映等自然界の種々なる色の作用運動を自在に巧妙に現はし、之れ亦他に見る能ばぬ特色の一です。 

(五)觀劇の軽便と経済、一枚の入場券の外下足蒲團番附代及ひ祝儀など一錢一厘の冗費を要しません。 

(六)待遇の親切、觀客に對してぱ凡て親切と叮嚀とを旨とし入口には同じ服裝せる女給仕十數名ありて一々觀客席に案内します、 

(七)座附飲食店たる東洋軒は材料の清新さ價格の安直と料理の軽便迅速とを長所とし、亦塲内階上階下共何れも設備してあります 

(八)場内の淸潔と美麗とは日本劇場中の優にて殊に階上階下の和洋二様の便所の完全せる觀者の満足する所 

(九)演劇と各種演藝、同座は演劇の外に時々音樂、舞踊、義太夫、長唄等各第一流者を撰んで興行し 

(十)子供日 は兒童に清新なる娯樂を得せしめん爲 日曜、大祭日毎お伽芝居を中心として児童に適當なる種々の演藝を興行します故、今は高等演藝塲と共に滿都兒童唯一の娯楽塲となりました、 

百聞一見に若かず、東京に遊ぷ人は一度有樂座を一見して故郷への土産話となさるのを勸めします。

■この記事を…

一読する限りでは 、近代的な西欧型劇場であることについて異論を見ない

●明治44(1911)年開場、定員1,897名の
帝國劇場



と較べても、あえて指摘すれば(二)にある桟敷席が設けられていた程度*で、顧客への対応方法や(四)照明設備なども大きな差異はなさそうである一方、帝国劇場の方も、収益性の観点から、歌舞伎等の公演を可能とするための花道もオーケストラ・ピットと同様に仮設可能となっていたので当然演目の面でも決定的な差があったわけではない。

*椅子席を基調としているので、桟敷席だけのために下足番を置いたとも考えにくいので、おそらくは蔵前の国技館の枡席がそうだったが、桟敷の脇までは土足で出入りし、桟敷の床下にそれを収納していたのではないかと想像する。

■こうなると…

高等演芸館を特徴づける要素は何なのか*、また一方で「豊澤…」が何をもって「高等演藝館」を標榜したのかを見つけ出すのは、非常に難しいことがわかる。

*演目の面では

竹本浩三「戦争と演芸」立命館平和研究: 立命館大学国際平和ミュージアム紀要 Vol.2、2001.03

「 講談・浪曲・落語の三ジャンルを高級演芸と位置づけ、漫才・妻(手品)・曲芸・剣舞・三味線芸などの雑芸を「色物」と仕訳していた時代が、つい先年まであった。その色物芸が遂に高級芸を駆逐?、淘汰してしまった昨今、ステータスが逆転して今や漫才が高級演芸で落語を除く二演芸が色物になったと指摘した先生がいた。それが誠なら時代の変遷のなせるワザでもあろう。」

あるいは、この場合高級と高等は同義なのかもしれないが、「高級演芸場」と名乗る興行場所が、先の牛込や有楽座とは別にある程度あったらしいので、今のところ断定できないし、上記三ジャンルと有楽座の演目(九)とも重なっていない。

 【参照】

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」中「有楽座」によれば

(1) 高等演芸場として東京の有楽町に建てられた日本最初の洋式劇場。 1908年 11月1日開場。定員は桟敷を含めて 900人。従来の平土間に椅子席が設けられたほか,見物席での飲食喫煙を禁止して別に食堂と休憩室が設置され,茶屋出方を廃して切符制度,案内人が採用された
とされているという。

2023-06-10

【余話】牧野富太郎夫妻と円山町

 ■牧野の…

自叙伝的著作の一つ「植物記」桜井書店/S18・刊

「亡き妻を想う」と題した一節のpp.395-397

 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1064158/1/203

に、以下のように書かれている。

 大正の半ばすぎでした。上述のような次第でいろ/\經済上の難局にばかり直面し、幸ひその都度、世の中の義侠心に富んだ方々が助けに現れてやうやく通りぬけては來たものの、結局私たちは多人數の家族をかかへて生活してゆくには何とかして金を得なければならないと私は決心しました。それも煙草屋とか駄菓子屋のようなものではとても一同がやつてゆけさうにないが、一度は本郷の龍岡町へ菓子屋の店を出したこともあった。そこで妻の英斷でやり出したのが意外な待合なのです。これは私たちとしては随分思ひ切ったことであり、私が世間へ公表するのもこれが初めてですが、妻ははじめたった三圓の資金しかなかったに拘わらずこれでもって澁谷の荒木山に小さな一軒の家を借り、実家の別姓をとって“いまむら”といふ待合[*1]を初めたのです。私たちとは固より別居[*2]ですが、これがうまく流行って土地で二流ぐらゐまでのところまで行き、これでしばらく生活の方もややホッとして来たのですが、やはり素人のこととてこれも長くは續かず、終りにはとう/\悪いお客がついたため貸倒れになって遂に店を閉ぢてしまひましたが、このころ、私たちの周囲のものは無論次第にこれを嗅ぎ知ったので“大學の先生のくせに待合をやるとは怪しからん”などと私はさんざん大學方面で悪口をいはれたものでした。しかし私たちには全く疚しい気持はなかった。金に困ったことのない人たちは直ぐにもそんなことをいって他人の行動にケチをつけたがるが、私たちは何としてでも金を得て行かなければ生活がやってゆけなく全く生命の問題であったのです。しかもこの場合は妻が獨力で私たちの生活のために待合を營業したのであって、私たち家族とはむろん別居しているのであり、大學その他へこの點で、何等迷惑をかけたことは毫もなかったといってよいのです。それゆゑに時の五島學長もその邊能く了解しかつ同情して居て下されたのです。

 かうしてとに角一時待合までやって漸く凌いで來たのち、妻は私に目下私たちの住んでいるこの東大泉の家をつくる計畫を立てくれたのです。妻の意見では都會などでは火事が多いから、折角私の苦心の採集になる植物の標本などもいつ一片の灰となってしまふか判らない。どうしても絶對に火事の危険性のない處といふのでこの東大泉の田舎の雑木林のまん中に小さな一軒家を建ててわれ/\の永遠の棲家としたのです。

【参考】

待合については、

はの字 「芸者一斑」磯部甲陽堂/M45・刊 pp.92- 「待合の研究」

が、歯切れがよくてわかりやすい。



家守し
妻の恵や
わが学び
世の中の
あらん限りや
スエコ笹



*1 “いまむら”といふ待合
 牧野の妻、壽衛は、元彦根藩士小澤一政と京都の花柳界の家で育った母との間の末娘(二女)らしいので*、母方の姓が「今村〔いまむら〕」である可能性は無いではない。


  しかし、
  「料理待合芸妓屋三業名鑑 : 附・貸座敷、公周旋 大正12年度」日本実業社/T11・刊
  の、「澁谷」「待合の部」p.143
  によれば、
 「牧野スエ」経営の待合は、「中澁谷647」所在の「大むら」となっている。


     



















東京逓信局「番地界入 澁谷町」〔通称・郵便地図〕逓信協会/M44・刊






























 もっとも、これだけの話なら、誤植の可能性も否定できないのだが、
「大日本職業別明細図 澁谷町」東京交通社/T14.12.08・刊
裏面の「待合」のリストでも、「御待合 大むら」

が、表面の地図の「レ十三」の範囲(下図赤四角内)の、待合が集中している地域内にあることなっている。





 



















 もっとも、実際の図中では、「大むら」は、おそらくこの明細図の編集中に移転した結果ではないかと思われるが、中澁谷599番地あたりと措定される図中の青四角の位置に表記されている。
 この道玄坂の通りの南側の地域も、
松川二郎「三都花街めぐり」誠文堂/S07・刊 p.112
によれば、大正期には北側の円山町と一体の花街で、昭和6年に分離したとのことで
交番前から向側ーー即ち神泉谷道から反對の狭路へはいれば「冨士横丁」*で、料亭に福壽亭、松風がある、藝妓屋はすくなく小待合が多い

*坂下に、冨士信仰の扶桑教本部があったので、この名前が付いたようである。なお、この通り沿いは、神泉谷に次いで、後の円山町に先立つ、渋谷の花街の発祥の地だったらしい。 

場所だったようで、牧野夫妻が大泉に移る前年の時期なので、売上金の焦げ付きに対処するため、家賃の低廉な地域の、規模も円山町の「小さな一軒の家」よりもさらに「小さな一軒の家」に移転して(料亭ではないので、板場は不要だし、広間も顧客次第で必要ではないので「しもたや」でも対応は可能なはず)、馴染み客を対象に営業を続けていたのではないかと想像される。


 いずれにしても、牧野壽衛が経営していた待合の実名は「大むら」と考えるべきだろう。

【参考】

ほぼ同時期の


渋谷円山町のリストは、その pp.129-138 にあり

T11/12/01現在

藝妓家 118軒
藝妓  310人
半玉   41人
幇間    5人

待合   97軒
料理店  38軒

の由。  


*2 私たちとは固より別居
 一方、壽衛と別居していたとされる、富太郎たちの住まいは、
「土佐紳士録」海南社/T08・刊 p.31
によって、澁谷町中澁谷353番地
前掲・東京逓信局「番地界入 澁谷町」〔通称・郵便地図〕逓信協会/M44・刊
 右端中央やや上の青□内

だったことが判明した。


2023-06-04

豊澤地蔵→道玄坂地蔵

 ■遷座概略図


~S07〔豊澤地藏〕
S07~S28〔道玄坂地藏:上通り4-9〕
S28~〔同上:現在地〕












■「道路改正」による移転 

時期:推定昭和7年ころ

後記「東京都公文書館・蔵「不動産買受の件豊多摩郡渋谷町上通 道玄坂巡査派出所移転用地」の昭和7年3月31日に地蔵と並んでいた道玄坂巡査派出所(現・道玄坂上交番)の移転先の用地取得が決定されていることから、同年春から夏ころの撤去が不可避だったと思われるため

 経緯:後記[※1]の道路改正(東京都市計画環状道路改修工事)

道路(大山道)を拡幅させるため、瀧坂道との追分の三角地帯から移転(遷座)させる必要が生じた

松川二郎「三都花街めぐり」誠文堂/S07・刊 p.115

澁谷の色地藏 今の神泉谷あたりは往時は「隠亡谷戸」と云って、火葬場だった處である。こゝで荼毘に附した亡者の冥福を祈る爲に建立した大きな地藏尊が、花街の入口、坂上の交番の隣りに『右 北澤道』などと書いた右〔石〕標と共に建ってゐた*のは奇觀であったが、道路改正[※1にあたって取除かれ、今日は澁谷劇場横に新らしく堂宇を作って祀られてゐる。背に「文化三年」**と刻んである。文化三年といへば春花秋雨こゝに百餘年、曩には火葬場への曲がり角冥界の道案内者、今は花街の守護佛?藝妓から赤いよだれ掛などを贈られて艶めかしく、地藏さまの定めて感無量であらう。將たそれとも、予が職掌は六道の能下、色の道だけは管轄外ぢゃと苦り切って在す乎。此の地藏さまと、力士のやうに肥った仲吉の「はだか甚句」などがまず道玄坂名物であらう。

 https://dl.ndl.go.jp/pid/1458091/1/64

Cf. 松川二郎「全国花街めぐり」誠文堂/S04・刊 p.146?

坂上の交番の隣りに『右 北澤道』など書いた石標と共に残って居るのをのを知る人があるや否や、背に「文化三年」と刻んである。文化三年といへば春花秋雨こゝに百餘年、曩には火葬場への曲り角に立って冥界の道案内者、今日は花街の守護佛?藝妓から赤いよだれ掛などを贈られて艶めかしく、地藏さまも定めて感慨無量であらう。將たそれとも、予が職掌は六道の能化、色の道だけは管轄外ぢゃと苦り切って兎に角花街の入口に、巡査とならんて地蔵尊の立つておはすは無類の奇観である ...

* 当時、道玄坂上の交番と地蔵と道標が並んで建っていた場所は、現在の道玄坂交番の瀧坂道を挟んで西向かいだったことは、

道玄坂上の大山道と瀧坂道の追分の地藏と傍示

https://nakashibuya.blogspot.com/2023/06/blog-post_2.html

中の

江戸近郊道しるべ

などに描かれている傍示の位置からわかる。

** 前掲の 

道玄坂上の大山道と瀧坂道の追分の地藏と傍示

https://nakashibuya.blogspot.com/2023/06/blog-post_2.html

に、あるとおり、この地蔵は、文化3年以前の

『彦根藩世田谷代官勤事録

『遊歴雑記

に記述があるので、「文化3年」が誤りであることは明らか。

(他にも、この「…花街めぐり」にはアヤシイ記述がないではないが、その検証が目的ではないので、ここでは無視することにする。) 

では、いつなのか、となると、現在も道玄坂地蔵像の背後に掲げられている、山野辺三行なる人物作の由緒書きに「寶永3年」とあるものの、これも、戦災で背部に刻まれていたらしい銘文が失われているとされていることから、現在では、山野辺がそう言っているだけで裏付はない。したがって「伝・寶永3年」とでもしておくのが正しいと思われる。


髙橋家・蔵「昭和7年2月 議事録綴 中「案内図」
前記「道玄坂巡査派出所」も移転済みである













[※1]道路改正

東京府土木部「東京都市計画環状道路改修工事報告書」同府/S08・刊

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1907000/1/4

1(等)、3(類)、7(號)道路

  • 着手 昭和5年10月 3日(p.54
  • 着工 昭和6年 6月20日(p.141
  • 竣工 昭和8年 9月20日(同上)
前掲「報告書」附図抜粋・編集
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1907000/1/137


精細版は
https://nakashibuya.blogspot.com/2023/06/blog-post.html

 上記2冊の松川の著作のうち、S04刊の「全国…」の時点では、地蔵は「坂上の交番の隣り」にあったのに対し、S07刊の「三都…」の時点では「澁谷劇場横に新らしく堂宇を作って祀られて」いたことになり、この間に「道路改正」が原因で遷座されたことがわかる。

 なお、同時に、前掲・各松川の「坂上の交番」つまり当時の道玄坂巡査派出所も、瀧坂道の西側から東側の現・道玄坂交番の位置に移転した。

東京都公文書館・蔵「不動産買受の件豊多摩郡渋谷町上通 道玄坂巡査派出所移転用地

同「不動産買受の件豊多摩郡渋谷町上通4丁目2 道玄坂巡査派出所移転用地として」

■山の手空襲による罹災

●復員局「全国主要都市戦災概況図 東京1」



同上凡例














●参考図(建物疎開地域)

日本地圖株式會社「コンサイス 東京都35區 區分地圖帖 戦災焼失區域表示」同社/S21・刊
「澁谷區」〔抜粋〕 

緑塗が建物疎開区域
赤塗が山の手空襲による罹災区域















【参考】

東京急行電鉄社史編纂委員会「東京急行電鉄50年史」同社/S48・刊 pp.325-326

本社建物の強制疎開

米軍による本土空襲が激しくなるに及んで政府は,都会における空襲の被害を最小限に食止めるため,昭和19年3月,閣議で一般都市疎開要項を決定した。そのため,市街地では,一部建物の強制疎闊が行なわれた。渋谷区でも駅周辺の建物が強制疎開の対象となり,当社の本社事務所(渋谷区大和田町1番地)も昭和19年2月にとりこわされ,以後,本社事務所は各所に移転・分散することとなった。…総務局田園都市課と経理局のうち,審査課を除いた大部分は東横百貨店4階に移った。…

本社事務所を東横百貨店内に移転

昭和20年5月24日, 25日の大空襲によって,本社・東横百貸店,清和会館,旧渋谷国民学校の本社分室が全焼した

「渋谷図書館郷土資料 写真集『渋谷の昔と今』」同館/S60・刊 p.25 写真番号25上
S20山の手空襲直後の道玄坂
左の中層建物は渋谷東宝映画劇場
【参照】
藤田佳世「渋谷道玄坂」彌生書房/1977・刊 pp.200-204 「大空襲」

 

■昭和25年11月 補修して再建立

  時期:現・地蔵像背後の掲出の、山野辺三行・作の由緒書きによる

  山野辺三行 → 南米新報 1941年6月18日号 3面第1段 参照

■昭和28年12月13日 現在地に再遷座 

  時期:像を支える六角台座側面の刻印による

  経緯:戦災復興院 昭和21年策定の「復興都市計画」に基づく土地区画整理事業
     が前建立地の上通四丁目9番地一帯に開始されたため

  【参照】東京都建設局/S31-34・刊 1/3000地形図「駒場」

  


【追記】

上掲のS31測量図とS22帝都地形図「上目黒北部」との重ね図を作ってみた。

黒線がS22図。赤線がS31図
中央の「場劇谷澁」の「場」と「劇」の間の★が道玄坂地蔵遷座地
従前の冨士横丁が大幅に拡幅され、地蔵が建立されていた公友会道/朝倉道
*は消滅した。

東京特別都市計画事業土地区画整理区域図」S32?〔抜粋〕
黄塗:昭和31年度迄移転完了区域  
橙塗:昭和32年度実施区域     
茶塗:昭和31年度迄街路工事完成区域
〇囲いの121区の赤点が地蔵の前建立地
前掲測量図はS31/09測図、同年度移転完了なので
地蔵建立地だった旧上通四-9の工事の最終期だったことがわかる
その前面が「公友会道」


* 公友会道(別名 朝倉道)

豊澤=道玄坂地藏の初回の遷座先が、この道路沿い。
戦後の区画整理でこの道路が無くなってしまうことが、2回目の遷座の要因らしい。
この道路の起源と消滅については、別ブログの以下にまとめた。 

DaikanYamaNores&Queries :「公友会道」の消滅