2023-06-29

渋谷花街の「道券」

 ■当ブログの…

豊澤地蔵→道玄坂地蔵
https://nakashibuya.blogspot.com/2023/06/blog-post_3.html

で触れた

 松川二郎「三都花街めぐり」誠文堂/S07・刊
 のpp.110 以下の「渋谷」

 の中で、二派あった円山町の花街について、以下のように解説されている。

 元はひとつの花街で常時四百乃至四百五十名の藝妓を擁し、新市街随一の大花柳を以て跨りとしてゐたが、昭和六年五月其の一部が分離して「道玄坂三業」を組織し、今日は「澁券」(又は舊券)「道券」(又新券)の二派にわかれてゐる。
              :
            道券
 芸妓屋 二〇軒。藝妓 五十五、六名。 料亭 九軒。待合 八軒。
 これに属する主なる料亭は銀月、三樂、侍合では菊水、樂々などで、藝妓の方でよく賣れるのが吉の家の新之助、平の家の小萬、豊年家の淸香、田中家の小稲。喜久本のおかる等であるが、若手で御安直なのが多く、此花街を背負って立つといふやうな姐さん株は居ない。(以上pp.112-114)

■この…

道券こと道玄坂三業については、偶然、官報に会社設立公告があるのを見つけた。

昭和8年7月20日付け官報 1965号 p.544
https://dl.ndl.go.jp/pid/2958437/1/13

















■同社の…

  • 本店所在地は、「渋谷區上通四丁目九番地」で、渋谷劇場、三長料理店そして旧豊澤地蔵が道玄坂地蔵と名を変えて遷座してきた場所と同一敷地で、おそらく髙橋家の所有地*
  • しかも、取締役かつ代表取締役中の1名が髙橋三枝氏であり

髙橋家が深くかかわっていた会社であることがわかる。

*同地の当時の所有名義については資料を未入手だが、三枝氏の住所地は「渋谷區南平臺二十九番地」と上通四丁目9番地の南側隣地である。上通四丁目9番地が髙橋家の所有地でなく借地なら、地蔵の遷座先として、不安定なそのような場所でなく、髙橋家の所有地(こちらは資料で確認できる)である南平台29番地を選んだはずであるから、上通四丁目9番地も髙橋家所有地と考えて、まず、間違いない。 

■もっとも…

同社のもう一人の代表取締役である伊富貴音吉なる人物は、

 「料理待合芸妓屋三業名鑑 : 附・貸座敷、公周旋 大正12年度」日本実業社/T11・刊

https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/913685/1/93

によれば、大正11年当時渋谷待合業組合の幹事であり、どうやら、この人物が、松川二郎のいう渋谷三業界の「分離」のキーパースンと思われ、それに、会社の本店事務所、いわば道券の総見番の提供などの形で三枝氏が協力したのだと思われる。

■前掲・松川によれば…

従来からの澁券に較べ、道券は、芸妓の玉代が「至極安直」(p.114)とされており、気軽に楽しめる花街をを目指したらしい。

 あるいは、新興の店が多かったらしい道玄坂道の南側が中心の団体なのかとも思えたのだが、前掲・名鑑によれば伊富の経営する待合菊水は、旧中澁谷645(現在の料亭三長のやや北)と円山町内にあるし、前掲・松川に挙げられている店で名鑑で確認できるものは道の南北に分散している。

 もっとも、松川・前掲に挙げられている店には、前掲・名鑑に名前のないものが多いことからみて、比較的新興の待合、芸妓屋が多かったのではないかと思われる。

■この…

道券の設立と、道玄坂地藏の遷座後の縁日とは時期的にも関連がありそうで、芸妓がお座敷の行き帰りにでも顔を出せば、場が華やいで集客にもなるので出店する露店商はその分潤うし、芸妓も顔と名前を売るよい機会になったのではなかろうか。

 道玄坂については、林芙美子が「猿股」を商っていたという坂下の毎夜の夜店が有名だが、坂上の縁日は、性質上月1回、多くても「4の日」の3回だったのだろうが、その日には坂下にある程度は対抗できたのではないだろうか(そうでなければ出店者の確保もままならない)

【追記】

 時期的には一致しているが、内容的には必ずしも上記「道券」とは整合していないように思われるのだが、

東京都渋谷区「渋谷区史〔中巻〕」同区/S41・刊 p.1454 

に以下の記述がある。

昭和三(一九二八)年三月には南平台の一部四千坪に二業地が指定せられて、昭和六年五月新見番を作り、終戦前までの繁栄を見た。

【余談】

加藤一郎「郷土渋谷の百年百話」

中「第五四話 渋谷花柳界発祥のころ」〔pp.306-308〕

に、渋谷花街の黎明期のエピソードが紹介されている。

  • 明治20(1887)年ころ、遊芸師匠 の鑑札をも って、流し義太夫をや っていた人が、弘法湯の前に 「宝家」 の看板をあげた
  • その後、宝屋と林家に加え青山7丁目の寄席二山亭の裏の東家 (あづまや)とが三軒で組合をつくり組合金を出さなければ芸妓営業は始められないという掟を定めた
  • しかし「千代本」がこの掟を無視し、新橋から客に不都合 のあった「赤筋」と呼ばれた、いわば二線級の芸妓によって、道玄坂上交番の今の円山町の入口に看板をあげて営業を開始した
  • 既存の3件は芸妓が5人しかいないのに「千代本」には16人も いたので「喧嘩にならず」明治23-4年に、既存・新興の争 いも終った
  • 当時は宮益の魚惣が主な芸妓の「お座敷」だったが
  • 神泉谷の弘法湯脇に新川座という料理旅館が
  • その近くに近江屋が
  • 出来て、徐々に花柳街化した
  • 日清戦争後の明治29(1895)年頃から道玄坂南の富士横丁に「松風」次いで「文の家」が開店して拓け始めた
  •  それから 富士横丁から道玄坂上を横切って神泉谷までの両側に帯のような花柳地が開け 
  • 五六十軒の芸妓屋、料理屋が出来た
  • その後、荒木山と呼ばれていた円山町方面に一軒二軒と芸妓家が殖えていった。
  • 日露戦争(1903-4)後、世田谷付近に軍隊が設置され、御用商人が来るという工合で、花柳界にも これが影響して、荒木山も富士横丁も益々繁昌した
  • 明治44年から大正元年にかけて円山町が待合の許可地となると、待合、芸妓屋、料理屋も殖えた
  • それに先立つ、明治31年に芸妓屋組合、同36年に料理屋組合も出来ていたが、大正8年2月には料理屋、待合、芸妓屋の三者一体の渋谷三業株式会社が創立され
  • 大正11年には、料理屋29軒、待合が97軒、芸妓屋が146軒。芸妓数は大小合せて約260人となる大発展を遂げた

【追記】

去る、令和5年7月8日、高橋家関係者の方々から、それぞれ、他の話題に転じてしまったので、時期・場所などが不明なままに終わってしまったのが残念だが
・高橋家は、三楽という名前の料亭を経営していたらしいこと

・三枝氏が、芸妓置屋を経営していたらしいこと
をうかがった。

 このうち
  • 料亭三楽については、前掲・松川でも、「道券」に参加している料亭として名前が挙がっている
  • 芸妓置屋については、時期、屋号、場所については全く不明なのだが 
高橋三枝営業所 澁谷46-1073 澁・圓山

 との記載があり、あるいは、これが、三枝氏経営の芸妓置屋なのかもしれない。

 なお、こちらは料亭ではなさそうだが
 
日本商工通信社 編「職業別電話名簿 第18版」同社/S03・刊 p.352

青山36 一四九七 鳥新 高橋三枝 豊多摩、南平臺二四

 との記載もある。


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